お前のそのとぼけた態度が、他ならぬ作りものだって、俺は気付いてる。そのことにお前も気付いてる。
朝のショートホームルームを前にざわめく教室。チャイムが鳴っても担任が来るまでは静まらないが、いつものように沢田や獄寺、笹川たちとなにやら雑談していた山本はその鐘の音をきちんと聞き取り、1人その輪からそっと抜け出し席に着く。沢田たちはまだわいわい喋っていて、朝から本当に元気なやつらだと思う。まあ自分こそ今朝早くからみっちり朝練をこなしてきた身なのだけど、そのせいでこの時間帯はあんなに騒ぐ気にならない。
山本は椅子を引いて着席し、机の上に放り投げてあったエナメルバッグからやけに量の少ない勉強道具を取り出して引き出しにつっこむ。ファスナーを閉め、練習道具が詰まったそのバッグを机の淵にかける際に、やっと―本当にそうかどうか―斜め後ろの席に座るの視線に気付いた。
「ん?なんだよ?」
見事に人当たりのよさそうな表情だ。は頬杖をついたまま視線を斜め下に流す。
「―いーや、なんでも」
なんだよ、変なやつ―そう言ってからから笑う声は、少々遅れて教室に現れた担任の挨拶によってかき消された。
オスカー
えー、まだ20分かよ―黒板の上に備え付けられたアナログ時計を見遣り、はうんざりとうな垂れた。このクラスの英語を担当しているのは若い女性教師で、まだキャリアが浅いためか教え方が覚束ない。英語が得意なはこの教師の授業を受けるたび、自分の方がよっぽどうまく教えて見せるのにと思っていた。―おい、そこの説明それだけかよ、ついて行けねえだろ―教師は黒板に書き記した重要構文をさらっと赤チョークで囲むと、さっさと次に移ってしまう。とんだ自惚れとお節介だとは分かっていても、は教室内を軽く見渡してしまった。そうしていつも、にとって英語の授業は果てしなく長い。既に家庭内学習で学んだことばかり、むしろそれ以下の内容をつぶさに聞く気にはならなかった。加えてこの2時間目という魔の時間。朝練の疲れがじわじわと効いてくるタイミングだ。一度「眠い」と認識したら最後、休息の眠りを得るまで体はだるさを隠せない。
は真面目な生徒だった。所属しているサッカー部では、1年生ということもありまだレギュラーにこそ選ばれてはいないものの将来を有望視されているし、それにおごることなく練習にも真剣に取り組んでいる。勉学の方では得意の英語以外は中の上程度とはいえ、部活に入れ込んでいる生徒としては十分優秀な部類だ。時間がないので塾には通えないが、その分は通信の家庭内学習でカバーしている。年齢のわりに少し冷めていて若干無愛想な部分もあるが、それは落ち着いていると取ることもできるし、何より大人びた顔立ちがそう見せているのだろう―と、欠点さえも揉み消すほどの空気を持っていた。もちろん教師の間での評判も上々で、そういう自分が『できる方』の人間であることは他でもない彼自身がとてもよく自覚している。
いつの間にか目を閉じていたことに、かくりとずっこけた頭で気がついた。背後から感じる視線に頭をかいてごまかす。黒板を見ると半面ほど進んでいて、仕方ないノートだけでも書いとくかとシャープペンを持ちその頭を2度3度ノックした。それにしても相変わらずひどいな、もう少しうまくまとめられないもんか―残酷なことを考えながら黒板、ノートと視線を往復させるのだが、その度に山本の頭が視界に入ってうざったいったらない。さっきからずっと、左手で頬杖をつき、右手ではペンを器用に回しているが果たして授業など真面目に聞いているのだろうか。それよりも、自分と同じように部活の朝練に出てきたくせに、眠くないのだろうか―
「(……くそ)」
余計なことを考えていたら書き間違えてしまった。まったく腹が立つ。色のはげたアルミのペンケースをぱかりと開けて消しゴムを取り出そうとしたら、角が取れて丸くなっていたそれは指の間をぽろりとすり抜けてしまった。本当に腹が立つ。落下した消しゴムは床で一度弾んだあと、あろうことか斜め前方へ転がっていく。まったく、もう、本当に…
引き付けられるようにして山本の方へ転がっていくのを、彼に気付かれる前に拾ってしまおうと席から抜け出しただったが、山本はめざとく消しゴムに気付き長い腕でひょいと拾い上げる。まわりを見回し斜め後ろで中途半端な体勢になっているに気付き、それを差し出した。愛想を塗り固めたような笑い方に嫌気がさす。
「ん?これ、の?」
「ああ、わり」
冷静を装って腕を伸ばした。手のひらを突き出すと、「ん」と一言付け加えて消しゴムが手渡される、が、その際に、それをつまんでいた山本の指がちょこんと手に触れた。は舌打ちしそうになるのをぎりぎりで耐える。
「さんきゅ」
代わりにその手を、消しゴムもろとも強く握りしめ席に戻った。机の上で手を解くと間から消しゴムがころんとこぼれ落ち、手のひらには爪の痕が赤く残っている。もう黒板を写す気も失せた。
*
日が落ちるのが早くなってきた。夏休み明けには夕焼けに染まりながら帰路についていたというのに、今ではもう夕焼けは夜に塗りつぶされてしまっている。ボールの入ったかごのキャスターをガラガラ言わせて体育倉庫につっこんだ。いつ入っても石灰の煙たさにむせる。鍵締めを今週当番の陸上部に任せ、はチームメイトと並んで部室へ下がった。すでに上級生の去った後の肌寒い中でせっせと着替えて、全員準備が整ったところでやっと終了。室内の照明を消して外へ出ると「うわ、暗!」「さみー」と誰かが漏らす。1学年でチームを組めるほどの大人数ではないが、ざっくばらんでサッカー馬鹿なチームメイトがはとても好きだった。わらわらと連れ立って帰る中、話題に出るのは今度の練習試合のこと、中間テストのこと、明日の宿題のこと、誰それの彼女のこと―。どの部活も大抵同じ時間に終わるので、この時間の通学路は部活帰りの並中生でいっぱいだ。サッカー部の団体の少し先には野球部の一行。ひょろりと飛び出た長身や豪快な笑い声は、野球部の中にあってもかなり目立つ。
校門を出て歩いていく中で、家の方面によってひとりふたりと群れを離れて行った。曲がり角のたびに「おつかれ」「また明日」の言葉が飛び交い、集団は小さくなっていく。
「んじゃな〜」
「おーまた明日」
「あれちゃんと持ってこいよ!」
「わーってるー」
残った3人のうち、家の近い2人がと別れた。貸す約束をした漫画のことを最後に確認し、お揃いの並中ロゴをならべた2人の背中は夜に潜っていく。急に静かになり、自分が歩くたびにこすれるウインドブレーカーの生地がしゃわしゃわと耳についた。1人のときは伏目で歩くのがの癖だったが、前方に人の気配を感じて顔を上げる。
「おつかれー」
「…ああ、おつかれ」
山本は電柱に寄りかかっていた。上部に突き出た街頭が真上から彼に光を浴びせ、その整った顔の凹凸をより際立たせて見せている。止まりそうになる足をはかろうじて動かした。できるだけゆっくり歩いたつもりだったが、意味はなかったようだ―。学区の都合で中学まで一緒にはならなかったが、山本とはそれなりに―少なくとも互いのチームメイトよりは―家が近かった。話すようになったのも、クラスが同じことや席が近いことより、この位置関係によるところが大きい。お互い仲間と別れて1人で歩いている中微妙な距離で目が合い、「あ、どうも」と最初に言葉を交わしたときのことをは今でもはっきりと覚えている。
2人きりでいるとき、話すのは圧倒的に山本の方だ。野球部のこともよく話すが、一番多いのはやはり沢田たちのことだった。オチもまとまりもないわりに次々沸いて出る話の数々に、は「へえ」とか「ふうん」とか、会話が途切れない程度に返すだけ。不機嫌そうに見えないようにすることだけは気を付けていた。べつに嫉妬なんてしたりしない。してやらない。
「それでさー、その赤ん坊が…」
そしていつも出てくるのがこの赤ん坊の話だ。正装をしていて、拳銃を持っていて、言葉を流暢に話して―どこまでが本当なのか、どうやらまったくの作り話というわけでもないようだが、そんなことは興味がなかったのでこちらからその話に乗ることはない。
べらべらと喋り、途中で自分の言ったことに笑ったりまでしている山本の話を聞くふりをしながら、目をついと上に向けてみる。夜が染み込んだ西の空は深く濃く、僅かに明るさを残した東側が染まりきらないうちに細い上弦の月が雲の切れ間から顔を出している。内側の弧のラインがクレーターに沿って滲んでいて、とても美しい様だった。
「それがまた子供のおもちゃとは思えねえほどリアルでさー、ほんとおもしれーんだって」
「へえ、―」
不意に、声が途切れた。山本も不覚だったのだと思う。2人分のしゃわしゃわという布擦れの音と共に、そういう焦燥感がどことなく伝わってきたから。
「手え繋ぎたい」
逃すものか―歩みを早くして自分より少し前にいる山本に、後ろからでも聞こえるくらいの声で言う。彼は足を止め、僅かな間―にしか分からないほどの―を置いてから首をひねり、ん?と柔らかい表情で振り返る。この期に及んでまでこいつは―合わせて足を止めたが右手を突き出すと一度まばたきをした。
「なに、さみーの?」
すかさずが「うん」と答えると、「仕方ねえなあ」と苦笑した顔を前に向けながらその手を取る。歩き出しながら空いた右手の人差し指で鼻をこすった。
「そうじゃない」
「ん?」
は握手をするような形で握られた手をもごつかせ、互いの指が絡まるようにして握り直す。節くれだった指が押し合いへし合い、窮屈で血行が止まりそうになるのを更に強く握った。どちらとも分からない脈の律動がそれを増幅させる。心地いいとは言いがたい圧迫感を、山本も同じように感じているだろうが何も言ってこなかった。
闇が東にまで浸透し、空気はまったく夜に占められた。視界は色彩を失い、目に映る存在はすべてが影として不気味に佇み、その輪郭は闇に溶け出しそうなほど曖昧で、等間隔に並んだ電柱の街灯とそのまわりだけがぼんやり滲んだように白けていた。頭上では瞬きだした星の間を縫うようにして夜便の飛行機の人工的な点滅照明が空を滑り、大気を裂く音がごおごおと遠く聞こえる。
沈黙は長かった。山本とて常に喋り続けることができるわけではないし、会話が途切れることは間々あったが、それでもから話を持ちかけることがないとあれば「あ、そういやさー」と、また彼の方から新しい話題が提供されるのだった。しかし今回はそれがない。とはいえ山本の方から口を開く前に、と、は一言彼を呼んだ。いつもより少しこわばった「ん?」が返ってくる。何十回と聞いたのでさすがに聞き分けがつく。
「キスしたい」
繋いだ手の内側が、さっと冷や汗をかいたのが分かった。遠く市街地の方からぼやけた消防車のサイレンが聞こえる。かさかさに乾燥した空気が運の尽きだ。
「あっ、はは、なんだよ急にー、」
今度はが足を止める。繋がった腕がぴんと伸びて、引っ張られるようにして山本も動きを止めた。の位置からは顔が見えなかったが、一時そのまま停止したあと笑みの剥げ落ちた顔をこちらに向ける。無表情に近かったが唇が薄く空いていた。のまっすぐな視線にがちりと捕らえられて僅かに怯み、口を閉ざす。
「抱きしめたい、今すぐ。セックスだってしたい」
離れた街灯から漏れる明かりだけでも、その顔立ちははっきりと見て取れた。押しの強い視線に耐え切れず山本が目を伏せる、その瞬間をは待っていた。繋いでいない方の手で山本の肩を押し、そばにあった塀に押し付ける。背中にしょっていたエナメルバッグが潰れてぐしゃりと鳴った。繋いだままの手がねじれる。
「―演技ごっこはもうやめにしようぜ」
緩やかな動作で、山本の肩にこめかみを預けた。至近距離から見上げる、動揺と困惑の色をたたえた横顔はまさに今夜の三日月のよう。唇を寄せた耳に吹き込むのは、麻薬のように甘美でかぐわしい決め台詞。
「そろそろ観念してくれよ
―― 武」
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2006/10/20 background ©RainDrop