くん、離れなさい」
「なんで」
「いや、先生困っちゃうから、っていうか困ってるから」
 薄汚れた白衣越しに手をついた腿が熱い。至近距離で捕らえたブルーグレーの瞳は髪の色とあいまって、本当に純日本人なのかと思わせるほど色素が薄くて吸い込まれそう。正面からもっとよく見たいけれど、断固としてこちらに向くことはない。彼の全身に染み付いた紫煙のにおい。
「したきゃすればいいだろ」
「おま、…そゆこと言うんじゃないの」
 一瞬、ちらりとだけこっちを見た。でも本当に一瞬すぎて全然見えない、キズと汚れで曇った凸レンズの向こう側。細長いアーモンド型に縁取られた睫毛の範囲内で不規則に泳ぎ回り、また隅っこに逃げてしまう。
「じゃあどうしろって?」
 絶えかねたのか、組まれていた腕が解かれて片方が俺の胸板を押し返してきた。
「自分もっと大事にしなさい」
 明らかに苛立った溜息を漏らしはしたが、拒否に力ずくで逆らうことはしなかった。乗り上げていた片膝を寝せて腿からも手を離し、色褪せたベンチに腰掛ける。雨ざらしでざらざらにささくれた木目が制服の生地をひっかいた。隣の坂田は一度もそりと動いて体勢を直した後、白衣の胸ポケットから潰れかけている煙草を取り出す。安っぽいプラスチックライターのホイールがチョリチョリと空回って耳障り。
「ずりいよあんた…キレー事ばっかり」
「汚れてる奴が言うから綺麗事なんだよ」
 先端にやっと火が点く。大きく吸い込むとベンチの背凭れに腕を回し、空に向かってぷはあと吐き出した。頭の裏で手を組んだまま盗み見る、のけ反った喉から顎にかけてのラインが美しい。

 間違いなく両思いなのだ。確認したわけではないが、当事者なので分かる。否定の否定が彼―坂田にとっては最大級の肯定なのだから。それなら、俺らの間にぽっかり空いたこの距離はなんなのか?いや、なんなのかは分かってはいるが、その必要性が分からない。こんな微妙な間隔じゃ、子供一人座るのがやっとといったところ。それがまどろっこしくてもどかしくて頭にきて、馬鹿じゃねえのと思う。
 寄りかかった体勢のままで何度か喫煙を繰り返した坂田は俺の考えを見透かしたかのように体を起こし、今度は腿に肘をついて「あのなあ」と彼らしい口調で沈黙を割り、サンダルの間に煙草の灰をちょんと落とした。
「知恵ばっか付けちまった人間の欲望ってな際限がねえの。だからてめえでブレーキかけにゃ社会はうまく回らねんだよ」
 分かった?と一度こちらに目配せする。返事をしないまま目を逸らすと、小さい呆れ笑いが聞こえたのでムッとして振り向いた。しかし言い返す間もなく坂田は立ち上がって、まだ長さの残る煙草をベンチ横の錆びた灰皿に押し付けて揉み消す。
「次はちゃんと出な」
 よれよれのポケットに手をつっこみ、ほつれた裾をはためかせて白い背中は遠ざかっていく。最後に残した気遣うような微笑が目障りで、その残像をかき消すように大声を上げた。
「俺はぜってえ引かねーからな!」


リーズナブル


 世間の健康志向にあおられて校内でも分煙の傾向が高まり、後者裏の隅に喫煙所が設置されたのはおよそ1年前のこと。公務員とはいえ愛煙家の教師も少なくなかったため、当時は休み時間を問わず空き時間の合間を縫った利用者が耐えなかった。しかし職員室からは対角線上に位置するため移動が面倒なうえに簡易ベンチだけで屋根もないし、加えて厳しい保護者・生徒の目もあり、人影は徐々に減っていった。肌寒くなってきたこの季節ともなれば、古びたベンチはいつだって坂田の貸切だ。
「ちわーす」
「こんにちは。ってこら授業はどうした」
「風邪で見学です」
「数学でしょ」
 生徒立ち入り禁止というわけではないが、未成年が喫煙所に近付くのを好まれないのは当然のことだ。そのためにわざわざ、昇降口から校庭、駐輪所から昇降口への移動ではあまり通らない場所に作ってある。それでもは足しげくここに通っては坂田の隣で時間を過ごすのだった。1人でも来ているのかと思っていたが、どうやら坂田の空き時間を把握しているらしい。パーカーの上にさらに羽織ったジャージのポケットに手をつっこんで、長いズボンの裾の下は上履きのまま。防寒用に首に巻いたマフラーはセンスのいい赤と紺のタータンチェック。
「いい年頃なんだから、こんなオッサンより女子を追いかけろ女子を」
 校舎の影の向こう側では2クラス合同で体育の授業が行われている。あの体操着の色は2年生だ。グループ順に校庭のトラックを走りタイムを計っているらしい。今日も気温が低いのでほとんどの生徒は上下ジャージ姿だったが、走る際にはそれを脱いで半袖ハーフパンツ。白い息を吐きながらトラックをぐるぐる駆ける少女(男子もいるが)を坂田は遠目に見やった。
「そんなんグラビアで事足りるじゃん」
 坂田に合わせても目線を移したが、つまらなそうに瞬きをしてすぐに目を逸らす。
「でもあんただけはダメなの。どんだけきつい雑誌でもビデオでもダメ。あんたじゃなきゃ意味がない」
 俯く横顔は真剣だった。吹き込んだ木枯らしがフードの付け根からたれたひもを揺らす。乾ききった落ち葉はカラカラと転がりながらコンクリートを駆けた。


 壁に立てかけてあった折りたたみ椅子を拝借し、坂田の左隣でが説明を受けている。問題集を片手に「質問にきましたー」とやってきたを、職員室にも関わらず堂々とジャンプを広げていた坂田は煩わしそうに「っても国語ってのはフィーリングだかさらあ」と追い返そうとしたのが、それより一枚上手だったは「古典なんですけど」と真っ白な問題集のテスト範囲を広げて見せたのだった。
「だからここは助動詞の活用がね―」
 デスクに肘をついて足を組んで、と教えを受けている者とは思えない態度に加え、その目線は問題集よりも赤ペンを握る手に集中されていたが、坂田は構うことなく淡々と続ける。言われた通りに問題に答えていくので赤マルは増えるが、本人が理解しているとは思えなかった。
 「次」とページをめくらせるとその拍子に膝が触れる。坂田は反応しなかったがも引かないので触れたままになった。僅かな動きひとつ見逃さないとばかりには坂田の表情を凝視している。視界の隅でそれに気づいた坂田は手元に意識を集めた。
「これはさっきと同じ表を使って、」
 しかしの手が伸び、腿の上の左手に重なったとあっては無視を決め込むわけにもいかず、坂田は渋々口を休めて顔を上げる。は今度は重なった手を見つめていた。
「…なに」
「蚊がとまってた」
「この時期蚊なんていないでしょ。てかいたとしても取る気ないでしょ、これ」
 重ねられた手を払うことはしなかったが、坂田の反応はそれよりも冷たかった。双方とも動じないままの一時の沈黙の後、先に音を上げたが僅かに俯き癇癪を起こしそうになるのを舌の根で必死に食い止めている。自粛の強制は拒否よりも痛い。デスクの上で尖った赤ペンの先がコンコンと鳴る。
「分かったなら離して。説明してんだから聞きなさい」
 の手がそっと引いた。ゆるく握られて彼の膝の上に収まる。
「じゃさっきの続きね、これ―」
「もうわかったからいい」
 膝についた手を押してが立ち上がると脆いパイプ椅子が暴れる。片付けないまま坂田の手の腕から問題集を抜き取り、それを閉じもしないでバサバサ言わせながら職員室を突っ切っていった。ちょうどドアのところで鉢合わせになった教師に1つ頭を下げてから職員室を出て行く。伸ばしかけて中途半端に浮いている自分の手に気づいた坂田は慌ててそれを引っ込め、ごまかすように白髪頭をかきながらキャップを閉めた赤ペンをデスクの隅に放った。加減が強すぎたのか、カツンカツンと転がったそれは軽々しくふちを飛び越えて落下する。ひとつ息を吐き、体を屈めて拾い上げたそれを今度は窮屈なペン立てに強引にねじ込んだ。


 今日も冷える。校舎の影にすっぽり包まれて1日中日陰になっている喫煙所に吹く風はまた一段と冷たく肌を刺すようだ。乾ききった唇を舐めるとざらりとする。通勤用のコートを羽織ってまで出てきた坂田は、特に煙草を吸うでもなくベンチにもたれていた。気分次第ではよくあることだった。ここに来ること自体が彼の習慣になっている。
 昨日の今日だったが、は当たり前のように現れて隣に座った。いつもより距離が近かったが、隅に座っている坂田はどうしようもなかったので動かなかった。
「―こら、」
「教師ってのは肩も貸してくんねーのかよ」
 肩が触れそうな距離にあったの体が傾き、頭が坂田の肩に乗る。坂田はポケットの中でカイロをもんでいた手を休め、小さく身じろごうとしたがに言われて黙る。ちょっと伸ばせば絡みそうな腕はしかし、分厚い上着の生地越しにやんわりと触れるだけ。それでも肩の重みと一緒に伝わってくるのは溢れんばかりの高体温だった。こんなにも精力を持て余してまで健気に思いを傾ける若さを、一線置いた向こう側から恐れながらも羨望していたことは認めよう。
「次授業だから行くよ」
「うそ」
 すり抜けるように肩を傾けて坂田が席を立った。すかさずその腕を後ろからが掴む。
「俺知ってるの、分かってるでしょ」
 不意に強く腕を引かれ、坂田は後ろに倒れこむようにしてベンチに戻った。硬く冷えた板に強制的に打ち付けられて尻が痛い。しかめた顔をが覗き込むので、他にどうしようもなく背を向けた。
「やっぱりこんなの馬鹿げてるよ」
 後ろから伸びた腕が首に巻きついてくる。後ろで体が密着し、お互いこの厚着なら鼓動までは伝わらないだろうが、閉じ込められた熱は膨張するばかりだ。うなじの辺りにマフラーの毛羽立った感触、首の周りにつるつるしたジャージのナイロンの肌触り、冷えて赤く麻痺していた耳に熱い息がかかって点火しそう。
 おもむろにの手が顔の前に現れ、眼前に迫ったその指が眼鏡フレームのブリッジ部分を摘んで水平に引っぱった。耳に掛かっていたモダンはするりと抜け、レンズが遠ざかって坂田の視界を曖昧にする。
「ねえ、センセ」
 滲んだ景色の中でゆるく俯いたまま首を傾けると赤くなった鼻が頬に触れた。体温を分け合うように、互いの内側に入り込むようにしてがすり寄る。五感を通して全身が満たされる感覚に、坂田は誘われるまま目を細めた。本末転倒なんて笑ってしまう。まったく本当に馬鹿げた話だ。


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2006/11/25  background ©0501