赤地に白抜きの横書きで「たばこ」と書かれた看板の下、人ひとりがようやく顔を出せる程度に小さく切り抜かれた窓。半分開けられた傷だらけのガラス戸の向こう側から枠に頬杖をつき、雑踏の片隅から街行く人々をなんともなしに眺めている男がいる。聞き飽きたのか、傍らに置かれていた携帯ラジオを手に取りチューナーをいじり、それを元の位置に戻してはまた頬杖を、今度は反対の腕でつく。
 中年の男性が1人立ち寄った。馴染みの客なのか親しげに言葉を交わしてはけらけらと笑っている。最後にたばこを1箱奥から取り出し、代金を受け取ると手を振って見送った。男性の背中が遠のいたら、ラジオの横に置いてあった缶コーヒーを一口すする。今度は組んだ腕に顎を乗せて、そうしてまた留まることのない人の流れを傍観する。
 毎度毎度キリがない―土方は短くなったたばこを最後に一口吸った後それを斜め下に細く吐き出しながら、そばにあったスタンド灰皿に吸殻をつっこんだ。


オーソリティ


「あれま〜とんだ男前だと思ったらトシちゃんじゃん!」
 道幅の広い通りを横切って小さなたばこ屋の前に立つと、店番をしているが突っ伏していた体を起こした。さっきまでの気だるい虚ろな目はスイッチを切り替えたように営業モードに移行し、親しみやすい口調で喋ると、すらりと縦長に整った顔もいくぶん幼く見える。いつものお堅い隊服ではなく黒い着流し姿の土方を見て、「今日はお休み?」とにっかり笑った。
「見りゃ分かんだろ…1つ」
「まーた1つだけえ?」
 えー、と不満げな目で見上げてくるのに構わず、土方は財布を取り出してジャリジャリ小銭を探る。それでもは身を乗り出してしつこく迫った。
「カートンなら割引するって言ってんじゃーん。あ、なんなら携帯灰皿でも付けよっか?」
 景品余ってんだよね〜違う銘柄のやつなんだけど、と足元の棚をごそごそ掘り返し始めるが、土方は手にした1箱分のお代をカウンター(のような、窓枠から内側に突起している木製の小さな台)にガチャっと押し付けてそれを制した。なぜわざわざ1箱ずつ買いに来るのか、分かっているくせに―少々仕草が乱暴になる。
「いいっつってんだろ」
 既に景品の携帯灰皿を手に持っていたは顔を上げて土方を見上げ、少し唇を尖らせる。カウンターの隅に放られた用なしの景品とその冴えないデザインを一瞥し、やっぱり要らねえな、と土方は確認した。
「あ、じゃあこれどう?軽いの出たんだよ〜しかもロングでお得!」
 ん〜、とちょっと考えた後、なにか思い出したは狭い窓からひょっこり顔を出して、半分閉まっている方のガラス戸の前に置かれているポップ広告を指さす。新発売の文字の横、淡い色使いのパッケージに「1mg100's」と書かれてあった。土方は顎を上げて目を細める。
「ンなの吸ううちに入らねえ」
「あのねー、こうやってチョットずつ軽くしてくことが禁煙達成に繋がるのよ?」
「誰が禁煙なんてするっつったよ」
「世間の声だよ公務員さん」
 けらっ、とまた軽い音で笑った。彼の笑い方はいい意味で乾いていて、カラっとしているので心地がいい。少なくとも表面上―そう、少なくとも上辺だけ―にはまったく悪意を感じさせない。それにしてもたばこ屋が禁煙を勧めるなんておかしな話ではあるが。それもできないと承知した上でのこと―目を伏せた土方は押し付けていたお代をの方へ滑らせる。
「いいからいつもの」
「はいはい、まいど〜」
 さすがにもう食い下がることもなく、は後ろの棚から見慣れたパッケージを取り出して手渡した。土方はそれを手に取り、それじゃあとその場を立ち去ろうとしたのだが
「あっ、ねえねえ」
 は箱を手放さない。土方もなんとなく手にしたままなので、引っ張り合うような妙な状態になった。なんだよ、と訝しげな目線を室内の男に向ける。は空いた方の手で頬杖をついて口角を吊り上げていた。いつも笑うときは軽快に口を開ける彼がこういう笑い方をすると、ぐっと湿度が増すように思えて目が離せない。ただでさえ端正な顔立ちをしているというのに―
「今日、休みなんでしょ?」
 土方は喉が鳴るのを抑えられなかった。


 はぎ取った包装フィルムをくしゃくしゃに丸めて、道端のごみ箱に捨てる。真新しいつるつるのパッケージを開封し銀紙をぴりぴりとむいた。
「(―またあいつか)」
 取り出した一本に火をつけたところで後ろを振り返る。人影の向こうに見え隠れするたばこ屋の看板、その下に着飾った女が立っていた。着物の柄や髪型、仕草などで職業や性格にはだいたいの見当がつく。最近は若い女も平気で煙草を吸うようになったし、それに合わせたデザインや香りの商品も発売されているのだから、何ら不自然なことはないのだけど、見覚えのある女に土方は眉間を引きつらせた。
 女受けしないはずがないのだ。あの容貌に、話しやすい気さくな性格。街に自動販売機が増える中でも、その魅力から男女問わず利用客は多い(自身も街の所々に自販機を所有しているらしいが)。女は楽しげに長話をしている。口元に手をやり、頭の上で趣味の悪い髪飾りを揺らして笑っている。ここから店内は見えないが、きっとも大口あけて笑っているのだろう。女は最後にたばこを受け取ると、代金と一緒になにか―よく見えないが、渡したようだった。窓からにょきっと飛び出た腕が小銭と一緒にそれを受け取る。女は一言二言付け足してから、手を振ってやっと店を離れた。こちらとは反対方向に歩いていく―
 土方はそこでやっと、口の先で長く重たくなっている煙草の灰に気がついた。ずいぶん燃えてしまったがまだ一口も吸っていない。慌ててその灰を落とし何事もなかったように咥え直すと、草履をじゃりりと言わせて踵を返した。今夜8時―それまで何をして時間を潰そうか。




「おら、着いたぞ」
「やあだ〜布団まで〜〜」
 家のドアの前で降ろそうとしたら、抵抗するように首に回していた腕を更にきつく巻きつけてきた。家といっても店の奥に一緒に作られてあるのがの家なので、ここはたばこ屋の裏玄関だ。は数年前までここに母親と同居して店を切り盛りしていたが、その母を病気か何か―詳しくは話したがらないので土方も知らない―で亡くして以来、1人で住んでいる。多くの商店が軒を連ねる大通りの路地裏は細く薄暗く、湿っぽい上に異様な静けさだ。夜8時から現在―恐らく日付が変わるあたり―まで散々飲み歩いて3軒ハシゴした上で、土方は潰れたをここまで引きずってきた。因みには、下戸(あまり自覚はないが)の土方と比べれば遥かに酒には強い方だ。なのに毎度毎度こうもでろでろに酔っ払って家まで送らせるというのは、よっぽど飲み方が悪いのか何なのか―確かに量は多い方だし飲み方も乱暴だが―しかし土方はあまり深く考えないようにしていた。肩に寄りかかったがぐずると、髪がふわふわと土方の頬をくすぐる。
「ったくしゃーねえな…鍵貸せ」
「うひあ、くすぐったい!」
 懐に腕を突っ込まれて、じゃらされた子供のように愉快げに笑いながらが体をよじらせる。密着度の増すふたつの体に土方は奥歯を噛んだ。鍵を探り当てて逃げるように腕を引き抜くが、はくっ付いたまま離れようとしない。仕方なく土方はひとつ大きく息を吐き鍵を開けた。
 狭い玄関で草履を脱いで、脱がせて、重たい荷物を寝室まで再び引きずる。の家には何度か上がったことがあった。とは言っても、こうして潰れた後に送らされてのことであって、それ以外の用件ではないが―。万年床になっているしおれた布団の傍らで重たい方の肩を下げた土方は、力が抜けてぐにゃぐにゃになっているの体を横たえようとした。
「おい、降りろ」
「ん〜〜」
「降りろっつの」
 鼻に掛かった声でまだぐずるのを無理やり引き剥がそうと前屈みになる。しかし絡み付いている腕の力は酔っ払いとは思えないほど強く、逆に引っ張られてしまった。思わず「うわっ」と漏らして倒れこむと目の前では、してやったりと言わんばかりの表情でにししと並びのいい白い歯を出しが笑っている。
「てっめえ…」
 至近距離の綺麗な顔に気を取られていたが、倒れた際に打ちつけたところが後からじわじわと痛み出した。を下敷きにしないよう無意識のうちに避けていたらしく、そのせいで無駄に勢いがついて体の側面を全体的に強打してしまった。しかしそんなこちらの気遣いなど露知らず、恨めしそうに睨みつける視線すらも面白そうに目の前の男はうひゃうひゃと快活に笑っている。どこまでも自分勝手だ、まったく、誰がこんな奴のこと―どうしようもない気持ちを幻滅で塗りつぶそうとするのはいつものことだった。それに失敗するのもいつものことだったが、心底呆れた今回ばかりはうまく行くんじゃないかと思えた。
「…帰るぞ」
 お望みどおり布団まで連れてきてやったんだ、もう満足だろうと暗に含ませて土方は体を起こすが、首に巻きついたままだったの腕が再び力を込めるので頭だけぐいと持っていかれる。離せよ、と口を開きかけた刹那
「チューしてよ」
 仰向けのはもう笑っていなかった。やはり酔っているのか薄目の目尻が少し赤く、それが女の化粧のように艶やかに見える。土方はきゅっと唇を緊張させた。回された腕は土方の髪を一度くしゃりと撫でたあと、それ以上動く気配はない。

 初めて触れたの唇は熱くて、薄いくせに思っていたより柔らかかった。触れるだけで終わらせようとしたが、それより早く向こうから滑り込まれて、次第にしてるんだかされてるんだか分からなくなってくる。は空いていた方の手も伸ばし、両腕で土方の髪をめちゃくちゃにした。溢れる唾液は粘土が高く喉に絡まり、合間にどちらともなく漏れる息は圧縮したように濃く酒臭くて息が詰まる。しかし土方にとってはそんなことよりも、重力に逆らえず、自分から離れられずにいることの方がどうしようもなく苦しかった。
 土方の髪を乱していたの腕が肩に移る。その次の瞬間にはぐんと押し出される形で土方の体が反転し、気付けば体勢が逆転していた。転がる拍子に唇はやっと開放されたが、の視線からは逃れられない。男にこういう形で見下ろされるのは初めてだった。押し倒した拍子に女が顔をこわばらせるときの気持ちが少し分かる。の指先が土方の前髪をかき上げた。女にする愛撫のような手つきに土方の腰は痺れ、それは瞬時に全身に伝播する。
「か、帰る!」
 感電したように動かなくなりかけた体に鞭打ち、上にいるを押しのけて起き上がった。のけられた際にが「おっと」と軽くこぼす。止まることも振り返ることもできないまま、急ぎ足で土方は家を出た。玄関あたりで遠くの方から「またねー」という呑気な声が聞こえた気がする。




 カコンと鳴って落ちてきたたばこと釣り銭を屈んで取り出す。小銭は隊服のポケットにつっこみ、真新しいフィルムをめりめりとむいて近くのごみ箱に捨てる。ここ数日、たばこの購入には自販機を使っていた。とてもと顔を合わせる気にはならない―いや、会いたい気持ちはあるのだろうが、会ってどう接したらいいか分からない。考えるのも嫌なので半ば逃げるような形で店を避けていた。これまでは店のある大通りを含んだ地域は見まわりに割り当てられなかったのでまあ何とかなっていたが、ついに今日、担当が回ってきてしまった。
 もう少しで店に差し掛かる。土方は通りの反対側を歩いたが、それでもやはり目は追ってしまう。そこで店が開いていないことに気がついた。
「あ、副長!?」
「先行ってろ!」
 開店時間がずれ込むことは以前からよくあったが、この時間に開いていないのはおかしい。一緒に割り当てられた隊士が後を追おうとするのを制して、土方は路地に入った。

 路地裏に出てすぐにの家のドアが開いているのが見えた。駆け寄ろうとしたが、その向こう側に女柄の着物の裾がひらりと見えたので足を止める。そのまま突っ立っていたら見え覚えのある女が姿を現した。少し遠くて顔まではっきりは見えないが、間違いない。
「(あの客か―)」
 女は玄関にいる人物―だろうが、ドアで隠れてこちらからは見えない―その腕をしきりにひっぱっては体をくねらせている。なにか長々と会話を―恐らくきわめて不毛な―繰り返した後、一度女も飛びつくような形でドアの影に消え、一時置いてから手を振って出てきた。あの時と同じように、土方がいる側とは反対方向に去っていく。
 ときどき女が振り返るのに答えているのか、しばらくドアは開いたままで、女が角を曲がったところで閉まりかけた。土方は全速力で駆けつけてそれをくい止める。
「―あらら、いらっしゃい」
 突然のことにも特に驚いた素振りを見せず、中に入りかけていたは息を乱してドアに手を掛けている土方をあっけらかんとして振り返った。髪は寝起きらしくぼさぼさにはね、顎にはうっすら髭が見える。だらしない寝巻きはいかにも、見送りのために急遽着ましたといった風だ。そして何より、彼に限らず部屋全体に漂うこの甘ったるいアルコール香料の臭い。
「くそっ」
 土方は両腕でゆるゆるの襟に掴みかかり、を玄関の壁に押し付けた。古い建物がきしむ。堪らなかった。
「誰が、てめえなんか―」
 顔は見れなかった。歪めた顔を伏せて、掴んだ襟を強く握る手が震える。土方が言葉に詰まっていると、されるがままになっていたの手が両頬に触れた。顔を上げるのを拒んだら無理やり上げさせられる。畏怖と情愛が混ざり合って小刻みに揺れている土方の双眸と対峙し、はうっとりと目を細めた。
「すっげえきれい」
 そのまま背中に腕を回され、首筋に口付けられる。胸倉を掴んでいたはずの土方の腕はいつの間にか力なく胴体の両脇にぶら下がっていた。―ああ、そうだった
 最近どうも、忘れっぽくて困る―自分には自由も権利もありはしないのだ。


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2006/10/26  background ©ukihana