※リーマンパラレル注意


「沖田ー」
 全面に大きく切り抜かれた窓、その向こう。光化学スモッグで霞み、反射で輝く高層ビル群を背に席を取った男―が、ホチキス留めの紙束をひらつかせて部下を呼ぶ。呼ばれた沖田総悟は連なる同僚のデスクの間から立ち上がり、上司の下へ歩み寄った。
「なんでしょう」
「これ、直しといて」
 は持っていた書類を、目の前に立つ沖田の胸にずいとつきつける。夕べ沖田が提出したものだった。その表紙の上に、淡い水色の細長いポストイットが貼りついている。そこに走り書きされた文字を、沖田は瞬時に読み取る。
「…分かりました」
「ん」
 沖田が紙束を受け取る。おおぶりな椅子の背凭れをギシと言わせ、は満足そうに眉を上げて笑って見せた。


アドバンテージ


 仕事を終えた沖田はビルを出てすぐにタクシーに乗り込んだ。運転手に行き先を告げる。もともとフォーマルな服装が苦手なためさっさと襟元を緩めたかったがしなかった。窓に貼られた『初乗り¥660』のステッカー越しに無数のカーランプが揺らめく。空気を察した運転手も先のやり取り以降何も言わず、車を走らせるこもったエンジン音が静かに体に染み入った。
 目的地、ポストイットに走り書きされてあったホテルに着いた沖田はそのまままっすぐ、メモ通りの部屋まで急ぐ。時間は少し過ぎていた。自分の姿が映りそうなほど艶やかなドアにはノックの音が良く響く。
「沖田です」
 中から返事はなかったが、間もなくドアが開いた。シャツ一枚を着崩した格好のが顔を出す。
「遅れてすみません」
「ご苦労さん」
 沖田が軽く頭を下げるとは柔らかく笑って部屋の中へ招き入れた。オフィスと同じように壁一面の窓は鏡のように黒く、隅に置かれた大きな液晶テレビにはCSらしい洋画が映り、画面下の白抜きの字幕が忙しなくちらついていた。
「なんか飲む?」
「いえ、結構です」




 交換条件と、言っていいのだろうか。
 沖田は特別仕事ができないわけではなかったが、大雑把で面倒くさがりな性格のため小さなミスが目立った。入社間もない頃は慌しさに紛れていたが数ヶ月のところで徐々に本性が露呈しはじめ、見かねたに呼び出されたのがことの始まりだった。
「だから、お前はやればできるんだからさあ」
「やりたくないんです」
 が用意したのは、話ついでと言うにはあまりに上等な食事処だった(少なくとも沖田にとって。)長い指で美しくワイングラスを傾けるに向かい合い、沖田は膝の上の拳を崩さなかった。グラスのフットを白いテーブルクロスに滑らせ、は離した指をこめかみにあてがう。
「はあ…俺はお前のためを思って、」
「それなら」
 話を遮った沖田に、も伏せていた視線を上げた。相変わらず背筋をピンと伸ばして座っている。安物のスーツも彼が着るとそれなりに見えた。
「他の方法でお願いします」
 ずっと握り締めたままだった手を動かし、沖田はグラスを取った。丸いカップ部分をわし掴んで血のように赤黒い液体を一気に流し込む。顔を伏せ、渋味に唇をこわばらせながら口いっぱいに含んだ分をどくりと飲み込んだ。空になったグラス越しに上司を映すと、薄暗い照明の中でぼんやり歪んで見える。
「もっと、俺向きの方法で」




 ルームサービスでとったのか、灰皿と一緒にテーブルに置かれていたコーヒーカップをは立ったまま口につけた。プレートに戻すとかよわい音がする。
「今日はチームで飲むって山崎から聞いたけど?」
「断りました」
 沖田に対し、は強要というものをしたことがない。が提示し沖田が了承して初めて成立する逢瀬だった。しかし沖田が拒否をすることはなかったので、実際には強要をする必要がなかった、と言った方が正しい。コートとカバンを手に直立したまま無表情を貫く沖田には目を細めた。

 ベッドの淵に座ったの両足の間に割り入るようにして沖田が立つ。上着は既に傍らに脱ぎ捨てられていて、の指がネクタイの結び目をしゅるしゅると緩めた。そのまま襟の裏を滑らせて抜き取る。首の裏をくすぐられて沖田は小さく息を漏らした。続いてシャツのボタンに手がかかる。あくまで優しくいたわるようなの手つきに沖田の体はいつも熱くなるが、俯き唇をきつく閉じて耐えていた。経験上、はひとつひとつ服を脱がす行為が好きなのだと、沖田は知っているのだから。
 襟先から袖口までボタンをすべて外し終えたは露出した胸にそっと唇をよせる。柔らかい髪や長い睫毛、ウエストから背中を直に這い上がる両手に沖田は下唇を噛んだ。その体勢のままが「なあ」と漏らすと、生暖かい吐息が肋骨を痺れさせる。
「総悟はなんで俺と寝るの?」
 沖田は震える喉を落ち着かせるため、口内に溜まった唾を嚥下した。聞こえてしまうのは分かっていたが、他にどうしようもなかった。薄く開けた唇から深く息を吸い、少し間を置く。
 昇級の話はまだ早いため沖田の身辺に明らかな変化はないが、何かと問題を起こしかねない彼が今なおこの場に留まり、同僚と肩を並べていられるのはのフォローによるものに違いなかったし、それが継続されるのであれば今後更にエスカレートするのは明らかだった。
「―何を今更?」
「ひでえなあ」
 細い声だった。
「俺に少しの望みもくれねえわけ?」
 顔は見えなかったが、眉を下げて自虐気味に笑っているのが見て取れる。沖田は唇をうごめかせたが、何も言わないまま再びきつく閉じた。つくづくタチが悪い、と思う。
 被害者ぶった面しやがって、酷えのはアンタの方だ―

 シャワーを浴び終えたは早々とワイシャツに袖を通した。すべすべのネクタイを手際よく結び、上品なカフスボタンを留め、ほどよくコロンをまとう。恐らくこの後に接待でも控えているのだろう。ふかふかの巨大な枕に肩まで埋もれながら沖田が時計を見れば、待ち合わせからほんの2時間足らず。いつものことだ。そうこうしている間には上着のボタンを留め終え、両手でこすり合わせたワックスで髪を整えている。
 精一杯甘えた声でおねだりすれば、やもすると一晩くらいは一緒にいてくれるかもしれない。しかし沖田にとってその確率はどうでもよかった。言う気などさらさらない。
 つけっぱなしだったテレビは既に次のベタなアメリカ映画に切り替わり、ちょうど主役とヒロインが出会うシーンが流れていた。
「んじゃな、風邪ひくなよ」
 身支度を終えたはベッドに片膝をついて横になったままの沖田に被さる。指の腹で軽く頬を撫でてから音を立てて口付けた。ドラッグストアのような臭いが沖田の鼻を突く。やはり接待用のコロンだった。たぶん女。
さんの好みって、どんなですか」
 かっちり整えられた背中に問いかけた。は一度振り返り「は?」という顔をしたが、荷物をまとめる手は動かしたまま、うーんと視線を上に泳がせている。
「そうだなあ」
 鞄の金具をパチンを閉め、冷めたコーヒーを一口すする。腕にコートを掛け手に鞄を持って、はドアの前で足をとめた。
「頑固で意地っ張り、かな」
 また明日な、と残しては消えた。オートロックのドアがガチャリと閉じる。

 去り際の笑い方とその声が頭の奥で反響し、沖田は熱を帯び始めてきっと赤くなっている耳をかきむしった。裸のまま起き上がってベッドから下り、飲み残しのコーヒーを一口にあおる。無糖でひどく苦かった。


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2006/9/17  background ©ukihana