「あの・さ、俺、笠井のこと―」
虫の音もまばらになった寒い夜、凍るほどの静けさの中で止まりそうな時間の流れを、秒針の音だけがかろうじて保っていた。暖房を入れるのはまだためらわれる時期、フローリングの床はコチコチに冷たくて、その上に正座なんてしてしまったので足首から先が断裂するくらい感覚が鈍い。そのくせ膝の上に置いた握りこぶしの内側は汗をびっしょりかいていて、それから首から上だけ、血管がはちきれそうなほどカッカして熱い。脈の音が顔全体に響いて、耳の奥でぐわんぐわん言っている。そんな状況下で、俺の思考がろくに働くはずがない。
「なんて言うか―ちょっと、気になる かも」
「なんですかそれ」
返ってきたのは天と地ほど温度差のあるモノトーンな声色で―まあそれは彼らしいと言えばらしいのだけど、あんまりな言い方に俺は呆気にとられるしかなかった。
「俺ははっきり先輩のこと好きなんですけど」
思いもよらないストレートにも、俺はやっぱり呆気にとられるしかなかった。
「先輩は違うんですか?」
間髪入れない畳み掛けにも、俺はやっぱり―
モノポリー
「先輩、聞いてます?」
「あ、え!?ああ、うん…」
2人の間に挟まった低いテーブルに肘をつき、その指を唇に添えて笠井はしどろもどろのを見据えた。笠井を見てきょとんとしていたは慌てて目を伏せ、テーブルの上の冷めたカップや、その横の携帯電話に視線を泳がせている。
「返事、聞きたいんですけど」
「―ああ!あの、ええと、」
の顔が再び赤くなる。頬と耳を中心にじわじわと色が広がっていくのは見ていて少し面白いが、それを単純に楽しむ余裕は笠井にはなかった。
「あの…俺、も……好き」
語尾の方は蚊の鳴くような声だ。まわりが静かだったからよかったようなものの、隣室で藤代が騒いでなどいたらきっと壁越しのそれにすらもみ消されていたに違いない。
「ちょっと、しっかりして下さいよ」
「う・うん、ごめん」
「まったく…いつ言うのかと思ってましたよ」
唇に当てていた手を頬杖にすりかえて、笠井はほっとしたようで呆れたような溜息をつく。は再び目を丸くした。
「この絶好の機会を逃すなんてありえないし」
まばたきを繰り返しながら、は留守にしている同室ののことを思い出す。練習が終わって夕飯を済ませた後はいつも部屋でゆっくり過ごす彼が、そういえば今日は夕飯後にそそくさと出て行った。確か根岸に呼ばれたとか―なんとか、言っていたような?
「って、う・わ!」
「なにぼけっとしてんですか」
回想にいそしんでいるうちに、笠井がテーブルの横を回って、すぐ隣に距離を詰めていた。咄嗟に身を引こうとしただったが、正座を崩した途端に足先がしびれ、それ以上動けない。笠井は更に身を寄せて、肩が触れる。
「キスのひとつくらいしてくれません?」
「え!?あ……い・いいの?」
「…今までの話聞いてました?」
笠井の冷めた目に、は反射的に謝る。それに笠井は更に目を細めた。
*
「はざーす」
「おー、はよ」
まだ寝ぼけたままの目をこすりながら、あくび交じりでウォームアップに参加する。ゆうべはろくに眠れなかった。あの後は結局、散々迫られた挙句に軽くキスをしたところで消灯時間となり、が部屋に帰ってきたので笠井は何事もなかったかのように「また明日」と残して部屋を出て行った。あれは何だったというのか、にはむしろすべて夢だったんじゃないかと思えてならない。
前屈に続いて後屈、思いきり背中を反らしたところで視界に逆さまの笠井が映り、そのえび反り体勢のままが固まる。
「おはようございます」
笠井はいつも通りの挨拶で準備運動の輪に加わった。まわりにいる近藤や辰巳もいつもの様に「はよー」と返す。は上半身を起こし、隣で屈伸をしている笠井を見て、やっぱり本当に夢だったのかもと考え出した、のだが。
「あ、あのさあ」
伸脚をしながら笠井が話しかけてきた。膝に手を当ててアキレス腱を伸ばしていたは、何か感じる違和感にまた動きを止める。
「、聞いてる?」
2度目でやっと気付いた。ぼっと顔を赤くしたは大声を上げそうになるのをなんとか抑える。やっぱり昨日のは夢じゃなかったのか、と思ったがそんなことはもうどうでもいい。
「ば、かお前っ!人前で呼び捨てとか…!」
「なに言ってんの?みんなもう知ってるよ」
「は、ああああ!?え、てかタメ語?」
耐え切れず声を上げるにも、まわりは「うるせーよ」とか「朝から元気だなあ」とか、呑気に漏らすだけ。急に近くなった2人の間柄について何もつっこまないところを見ると、どうやら本当に―
「俺から言っといたから」
「な、なん…!おま、恥ずかしさとかないの!?」
「そうやってこそこそしてる方がよっぽど恥ずかしいよ」
あたふたしているをよそに、笠井は着々と準備運動を進めている。まわりのメンバーもさっさとランニングを始め、2人だけ残された状態になってしまった。なにも言わない気遣いの方が逆に痛い…遠ざかっていくチームメイトを、は遠い目で見送る。
「あ、センパーイ!おめでとうございます〜!」
早くしてくださいよ、と笠井に急かされてが準備運動を再開したところに、早朝とは思えないテンションで現れたのはもちろん藤代。いつもよりも随分早いお出ましの上、ターゲットの2人が仲よく並んでいるところをよもや彼が騒ぎ立てないわけがない。つい先ほど近藤や辰巳の気遣いに居心地を悪さを感じただったが、気遣いなどとは無縁の天才(いろんな意味で)を目の前にしてようやく、彼等がいかに大人の優しさに満ち溢れていたのかを思い知る。
「ねえねえ、タクは先輩のどこに惚れたの?あ・いや、先輩はそりゃすげーイイ人だけどさあ〜!」
「いやー、まさかがねえ…よりによって笠井とはねえ…」
うーん想定外、と、わざとらしく顎に指をあてた中西も加わり、「でもまあうまくやりなよ」とちょっと上から目線で、の肩にぽんと手をやる。さらに遅れてやってきた根岸もウォームアップを始めながらちゃっかり「部屋使いたいときはいつでもどうぞー」と付け足してくる始末。勝手に話が大きくなっていくようでは焦った。
「ちょ・あの!ちがっ…!」
「違わないでしょ、」
アップを終えた笠井が冷静に割り込み、騒ぎの輪から抜け出すようにしての手を引いて走り出す。後ろからはやし立てる藤代の声がグラウンドに響いた。
「あ、そうだ、」
「は、い?」
言葉が途切れ途切れになってしまうのは、走りながら話しているから、だけではない。
より笠井の方が少し背が低い。目だけ横に流すと直毛の黒髪がさらさらと揺れていて、白い息を吐く唇に、夕べキスをしたんだよなあと思い返すと今更ながら恥ずかしくなる。
「今夜、根岸に部屋空けてもらったから」
「…う・ん?」
「言わなくても分かるよね?」
「分かりま……」
その途中で笠井のまっすぐな目に見上げられ、は取り繕うように「す」と付け足すのが精一杯だった。
その後の朝食でも当たり前のように笠井はの隣を陣取り、いつも一緒に食べていた近藤やは距離を置いた席に座ってしまったので、食堂の隅で2人向かい合って食べた。笠井はべったりな割りにあまり話さないし(もとから口数は少ないが)としてはまわりの視線も気になって心中まったく穏やかではない。部屋に戻ってやっと開放されたと思い、フリータイムにのんびりしていたら登校時間前に迎えに来た。クラスも同じなので毎日一緒に登校していたにも「行けよ」と言われて半ば強引に送り出されるし、これから先のことを考えると頭が痛くて目眩もする。笠井のことは、それはもちろん好きなのだけれど。
「あ、くんおはよー」
肩を並べて校舎内の階段をのぼり、2階に上がったところにのクラスメイトの女子が通りかかった。武蔵森の校舎は下から学年順になっているので3年生は2階の教室を使っている。クラス委員を担当している彼女は両手に今朝配るのであろうプリントとノートを抱えていた。
「おはよ。重そうじゃん、持とうか?」
「え、いいの?ありがとー」
女生徒に手を貸しながら、は後ろにつっ立っていた笠井に「じゃあまたな」と軽く残して教室への廊下を歩いていった。なにやら談笑しながら長身のを見上げる女の目線に、笠井は口の端を歪ませる。
女慣れしているわけではない、むしろ男と女の区別ができていないのだ。だから誰にでも優しいし、誰からも好かれる。両手が塞がっているが脚で教室のドアを開けようとすると、代わりに女が開けた。そこでまたひと笑い。教室に2人の姿が消えてから、笠井は踵を返してつかつかとひとりの階段をのぼった。
*
「ちょ、あの、待っ…」
夕飯を終え、は笠井と根岸の部屋にいた。放課後の練習にはさすがの笠井も真面目に取り組んでいて、ポジション別練習が中心だった今日は中盤のとバックの笠井はほとんど別行動だったし、もしかしたら今夜のこともこのまま流れるかも、とは考えていたが甘かった。夕飯前に笠井が部屋に迎えに来て、またしても2人で静かな食事を済ませた後、そのまま部屋に連れ込まれたという流れだ。
「じっとしてて」
「いや、いやいやいや!」
聞いた通り本当に根岸は帰ってくる様子がなく、部屋に2人きりの状態であってもなんとかはぐらかそうとは懸命に試みたのだが、つけたテレビは消されるし、開いた雑誌は取り上げられるし、風呂の時間はまだ早いしで、八方ふさがりになっていたところを笠井に捕らえられてしまった。後ろに手をついた体勢のに四つ這いの笠井が重なったと思ったら、静止の声もまるきり無視して首筋に顔を埋めて鎖骨をくすぐってくる。反応したが肩をすくめると、部屋着のトレーナーの裾にまで手を伸ばしてきた。さすがにまずいと判断したは片手を笠井の肩に当ててゆるく押し返す。
「ほんと、落ち着けって、竹巳」
名前を呼ばれて笠井は動きを止めた。
「おかしいよ、なんか焦ってるっていうか…お前らしくない」
首をひねり、すぐ胸元にある顔を覗き込んで「なんかあったの?」と優しく問う。笠井は俯いたまま一度唇を噛んだ。
しばし無言が続いたあと、キッと眉を吊り上げてを睨み上げ、その胸を突き飛ばす。を支えていた片腕ががくりと折れて肘をついた。
「なんで分かんないの!?」
仰向けになっているからの目線では、膝立ちの笠井は蛍光灯の逆光になって表情がよく見えなかった。だた彼がこうして感情のままに大声を上げるのを見るのは初めてだった。
「あんたさ、自分がまわりからどんな目で見られてるか分かってる?」
笠井はまたがっていたの腹の上に腰を落とし、背を屈めて顔を近づける。
「あんたは三上先輩とか誠二みたいに率先して目立つタイプじゃないから、表立って騒がれないけど!遠目に好意持ってる奴がどんだけいるか、分かってんの!?」
呆然と開けた口が塞がらないに笠井は早口でまくし立てた。そのあと一旦視線を斜め下に逸らし、もう一度を見据えてから、静まった声で続ける。
「そのあんたが、俺のこと見てくれて…どれだけ嬉しかったか。どれだけひとり占めしたくなったか、分かんないの―」
後半のか細い声はもはや質問になっていなかった。苦しそうに眉をひそめた笠井はそのままの胸にうずくまる。は開けたままだった口を結び、自分のトレーナーの生地をぎゅっと握っている手を撫でてから丸めた背中に腕を回して何度もさすってやった。
「ごめん、ごめん竹巳」
「謝ってほしいんじゃない」
「あ・うん、ごめん」
つい癖で返すと、僅かに顔を上げた笠井の恨めしそうな視線と目が合う。は眉を下げて困ったように笑う。
「でも俺、竹巳が思ってるほどできた人間じゃないし、自分に自信もないよ。だから竹巳が一生懸命になってくれるの、嬉しかったけど、正直ちょっと落ち着かなくて」
笠井はの胸に耳をぴったりと当てて聞いていた。直接伝わる振動や、背中を行き来する手は眠気を誘う。
「それにまわりがどうとか、関係ないよ。俺が好きなのは竹巳だもん」
うつらうつらしていた目を、笠井がぱっちりと開いた。床に手をついての目の前までずいっと乗り上げてすばやく唇を奪う。
「知ってる」
「…そっか」
ふふっと笑ったが笠井の頭を撫でると、冷たくなった鼻がこすれた。
根岸2年・中西3年・武蔵森共学ということでここはひとつ…
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2006/11/9 background ©0501