「なー…どーしたらお前はふり向いてくれんのかな」
「俺だって呼べば返事くらいするぜ」
「そうじゃなくってえ〜」
 空を仰いだが脱力すると、その背中で色褪せた緑色のフェンスがきしきしと歪む。投げ出した脚の先、すっかりめこめこに履き潰された上履きを見つめて唇を尖らせる。伏しがちな目を飾る睫毛に、乾いた風に揺れた長めの前髪がさらりと絡まった。瞬きをすると髪も一緒に揺れる。咥えた棒つきキャンディを口の中で転がすと、唇から飛び出た白いスティックが所在なさげにゆらゆらとさまよった。
 高杉はそこでふいと目を逸らし、手に持っていた紙パックのストローに口を付ける。噛みぐせでギザギザになっていて、舌に触れるとざらりとした。残り少ない中身を吸い上げると品のない濁音が木霊する。空になったパックにストローを押し込み片手で握りつぶすと「さて」と、フェンスをがしゃんと言わせた反動で立ち上がった。
「最後くらい出るか」
 パックを持っていない方の手を差し出す。は差し出された手と高杉の顔を上目で交互に見遣り、一旦視線を外して飴を転がした後、渋々という様子でその手を取った。高杉はそれを力任せに引っ張り上げ、そのままドアの方へ歩く。錆びた重たい鉄扉の取っ手に高杉の手が触れたところで、6限目開始のチャイムが鳴った。


フラストレーション


 3-Zと札の立っているドアの下で高杉は手を離す。はその後姿を見つめるが、ガラガラとドアが開いたのですぐに目を伏せた。教室中が後ろのドアを振り返る。痛い視線には慣れたものだった。
「あー?なんだお前ら、またデートで遅刻ですか」
 盛るのも程ほどにしろよ〜とテンション低めにからかう教員の坂田の声にはしかし、笑うものは誰一人としておらず、2人が上履きを引きずり椅子を引く音だけがいやに大きく教室に響く。2人はちょうど窓際の前後の席だった。一番後ろが、その前が高杉。ほどなくして坂田は授業を再開した。
 もちろん好きな言われ方ではないが、俗にいう不良というやつだった。3年で初めて同じクラスになって以来、と高杉はいつも2人でつるんでは授業を抜け出している。互い以外に興味を示さない2人は変わり者揃いのZ組の中であっても浮いた存在で、自ら関りを持とうとする生徒はいなかった。そのためただの不良仲間とは少し異なる2人の関係を、察知している人間もいなかった。しいて言えば、何を考えてるのか分からない担任の坂田。彼だけは感づいていたのかもしれない。




 屋上は立ち入り禁止になっていた。扉に赤字で張り紙がしてあるだけでなく、鍵も掛かっていた。しかし1年の頃からここが行きつけだったという高杉はなぜか鍵を持っている。事情を聞こうとすると濁されるので、も深くは聞かなかった。
 しかし今日は天気が悪かった。屋上には雨をしのげる場所がないので、雨の日は保健室で寝るか屋上に続く階段で暇を潰すかしかできないからあまり好きではない。階段は薄暗く埃っぽくて、じめじめしている。
「俺さー、好きなんだよねー」
「何が」
「晋助のこと」
「知ってる」
 は返事を要求したことが一度もなかった。だから受け流されても何も言わなかった。途切れた会話が沈黙を呼び、高杉は咥えていたストローを右の奥歯で噛んだ。もともとお互いあまりおしゃべりな方ではないので、一緒にいても黙っている時間の方が長いし、それが苦にはならない。一番上の段に座っているはサラダ味のプリッツをぽりぽり噛みながら、一段下に座っている高杉の、真っ黒で艶のある髪を見下ろしていた。
「食べる?」
 箱から取り出した1本を差し出す。振り返った高杉はそれを手で取らずに直接口に咥えた。の指先がじんと熱くなる。再び沈黙が訪れ、窓を打つ雨粒の音だけがせわしない。
「飲む?」
 1本食べ終えた高杉は紙パックを持ち上げて見せる。でこぼこのストローには苦笑した。
「飲みにくそうだからいい。もっと欲しいならやるよ」


 昨日の悪天候から一転、今日は気持ちのいい晴天で、日当たりのいい屋上のアスファルトは2人が登校する時間にはすでに乾いていた。背中のフェンスの向こう側では体育の授業の活気ある声が遠く聞こえる。1年生がドッヂボールでもやっているんだろう。降り注ぐ日差しは透明なシーツのようにぬくぬくとしていて、かすれたような雲は風に流されて更に薄く伸びる。その手前を何匹ものトンボが通りすぎる。味の消え始めたマスカットの板ガムを口の奥に押し込んで、が口を開いた。
「あー…俺晋助のことすげえ好き」
 体育教師の吹く笛の音が長く響く。高杉は手の紙パックを一度揺らして持ち直した。
「俺もだな」
 がふり向いたら片目と目が合った。高杉の左目はいつも眼帯で隠されていて見えない。黙っているに高杉は続けた。
「付き合う?俺ら」
 ふたりの間に風がひとつ吹いて、授業終了のチャイムが間を破った。今は何限目だったろう、古びた校舎は休み時間のざわめきで満たされる。そこから壁一枚隔てたかのように、顔を付き合わせたままの2人は動けずにいた。の長い前髪はわずかな風にも揺れてまっすぐな鼻筋をくすぐる。
「…お前、わかってんの?」
 ひどく冷めた声だった。高杉が「何を?」と返すより早く、の腕が高杉のセーターのVネック部分を掴み顔の距離を縮める。鼻先が触れ合うほど接近しては日差しも割り入る隙がなく、薄暗い視界は陽に慣れた目には緑がかって映る。ぐい、と一際距離が縮まって、唇が触れるのかと思う、その寸前で止まる。
「好き合うってこうゆうことだぜ。少なくとも俺が思ってるのは」
 の息は自分でも分かるほど濃く、マスカットの甘酸っぱい香りがした。唇を薄く開けたまま停止している高杉をさっさと開放して、元の位置に背中を預けてはそっと笑う。
「無理しなくていいって」
「…全っ然わかんねえ」
 珍しくに対して険しい顔をして高杉は前髪をかき上げた。隠れている眼帯が一瞬露になり、は目を奪われる。彼が感情を分かりやすく表に出すこと自体、あまりないことだった。
「言い寄ったり突き放したり、結局どうしてえんだよお前は?」
 眉間をこわばらせる高杉を、は唇にぐっと力を込めて見つめ返していた。しばらく経っても黙ったままなので、「なんだよ、言いたいことあるなら言えよ」と高杉があおると、両肩に思いきり体重をかけてきた。高杉は仰向けに押し倒されて、持っていた紙パックは零れ落ちてコトンと転がる。
「答えられんのか!?お前は!」
 空を背にしたの表情は逆光で暗く、しかし眉が苦しそうに歪んでいるのがはっきりと分かった。体重を掛けられている高杉の肩はアスファルトに押し付けられて骨が痛い。
「同じ男の、俺の、こういう感情に!お前は―」
 そこまで言って、高杉の目線にからめ取られたははっと目を丸くして我に返った。目を逸らして少し顔を赤らめ、それを隠すようにして手の甲を口に当て、高杉の上からしりぞく。
「―…わり、忘れて」
 肘をついて高杉がむくりと体を起こす。は膝を抱えた腕に顔をうずめていた。日を浴びて温まっている濃色のセーターの繊維と、色素の薄いテグスのような髪が絡まっている。静電気でふわふわしているそれに、高杉は手を伸ばした。の体が小さくこわばる。
「一方通行みてえに言うなよ」
 親指と人差し指で挟んだ一房を擦り合わせるとつるつると滑った。引っぱると指の間をすり抜けて、最後にさらりと落ちる。
「それとも何、今までの全部お前の自己満足?」
 静かな声色で淋しそうに言うと、は勢いよく顔を上げた。乱れた髪が顔にばっさり掛かっているが、その隙間から見える目は確かに涙ぐんで赤くなっている。そんな目で必死に否定を訴えてくるのがおかしくて、高杉は息を漏らして破願した。
「答えるとか、そんなんじゃねえだろ?」
 高杉の無邪気な笑い方はとても新鮮だった。はアスファルトに手をつき四つん這いになって、少しずつその笑顔に迫る。ペットの猫か犬のような動きに高杉はまた笑いそうになるが、その前に目を閉じた。
 おそるおそる、そっと触れた唇は、深く交わる前に離れた。の腕が高杉の頭を抱きかかえると、熱くなった耳が互いの頬に触れる。詰まった鼻声で、「どうすんだ」とがこぼした。
「もっと好きになっちまったぞ」
 抱きかえした高杉が「いいんじゃねえの」と答えた。ほくほくのセーターは太陽のにおいがする。


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2006/10/12  background ©MIZUTAMA