※暗いを通り越して 重 い です。メンタル系苦手な方はお控えください


あなたの、無垢で清らかなその瞳に、僕を映してください。望みはただそれだけなんです



Dark Messiah



 思ったより派手に破れた。まあ、傷口がよく見えるようになったから、ありがたい事ではあるのだけど、ここのところ毎日のようにスーツをズタズタにしているので、そろそろお咎めを受けそうな気配だ。それはさておき、出血の具合もちょうどいい。目が当てられないほどでもなく、でも痛々しく。慣れたものだ。ノックして名乗ると、ややあって返事があった。促されたとおりに部屋に入る。
「失礼します」
「ああ、、おかえり…って!大丈夫!?」
 あなた―親愛なるボス・沢田綱吉―は、重要書類などお構いなしとばかりにデスクに手をついて立ち上がる。その視線は、僕の血まみれの左手に、一点に注がれていた。僕の胸に充足感が込み上げる。そうやって、あなたは毎度毎度、同じように、心の底から心配してくださる。大丈夫です。出血量のわりに痛みはそれほどではありません。そうやってつけた傷ですから。むしろ、あなたにこうして心配して頂けるのであれば。こんなもの痛みにすら値しない。あなたのその柔らかい思慮の眼差しだけで、傷口なんて塞がってしまいそうなのだから。
「い、痛くない…?」
「大丈夫ですよ。それに任務は無事、完遂しました」
「うん、お疲れさま。早くシャマルに診てもらってね」
「ありがとうございます」
 僕の顔が終始穏やかなので、あなたの心配もいくらか和らいだようだった。部屋を出る前に一度振り返って頭を下げる。あなたはまだ立ったまま、眉も下がったまま。僕はできるだけ自然に笑って、部屋を出ようとした。
、」
 部屋から半身出たような状態で呼び止められる。はい、と返事をしてドアの隙間から伺うと、あなたは一度顔を伏せて目を泳がせた後、瞳だけをくい、と持ち上げる。そうやって上目遣いになると、まるくて大きな目が際立ちますね。白目の部分も純白で美しい。僕が見とれているうちにあなたは顔を上げる。
「あんまり、無理しないでね」
「…はい。ご心配ありがとうございます」
 僕は再度深く頭を下げ、ろくに顔も上げないままドアを閉めてしまった。もう一度あなたの顔を見たかったけれど、ちょっと、もう限界だ―閉めたドアに額を当て唇を噛み、震えるほど眉間に力を寄せ、込み上げて爆発しそうになる感情をやり込めた。好きですでは足りない。愛していますとは違う。言うなら、そうだ―ありがたい。あなたがこの世に生を受け、今、僕のボスとしてここに存在していること、その一挙一動、すべてに感謝しています。




「オイオイまたかよ…いい加減にしろよマゾヒスト」
「最高の褒め言葉だな」
 医療班の部屋はいつも、エタノールの鼻を刺す匂いが充満している。足を組んでデスクについていたシャマルは雑誌をめくる手を止め、目だけ僕を一瞥してまず溜息をついた。その後また雑誌に目を戻し(医学論文だろう。こう見えて意外と勉強熱心な男だ)呆れ声でぼやいた。僕は鼻で笑って、診察用の丸椅子に腰掛ける。ガタがきているそれは苦しそうにキイと鳴った。そそくさと上着を脱ぐと、真っ赤に染まった左腕が露になる。止血なんてしてない。裂かれた肘下部分を中心に腕半分が赤に侵食されていた。袖を捲くるのが面倒なのでシャツも脱ぐ。シャマルはいかにも面倒くさそうに重い腰を持ち上げて、僕の正面の椅子に移動した。 薬品が所狭しと敷き詰められた机に肘をつくと、人差し指と親指でアゴ髭を撫で、物色するような目を寄越した。
「オメーの顔なら、そうだな…1回女装でもして相手してくれりゃ2、3回はサービスしてもいいな」
 その眼差しに、僕はいかにも汚らしいものを見るように目を細めた。サービスっていうのは、診察料金のこと。「女しか診ない」というシャマルのポリシー(と言っていいのかどうか)は未だ継続中なのだが、しかしボンゴレ専属医となった以上患者は選べないので、「女は無料・男は有料」というシステムに落ち着いている。僕は何度も診てもらっているが詳しい料金設定は知らない。すべてツケてある。ツケの総額が現在いくらになっているかも知らない。支払いを請求されたことがないからだ。
「断る」
 僕のげんなりした視線に気付かないのか、そういう振りをしているのか、シャマルは舐めるような視線をやめない。露になっている僕の上半身をくまなく観察している。何考えてるんだ、まさか本気じゃあるまい―少し不機嫌になりかけた僕は簡単に突き返して、いいから早くしろ、と左腕を差し出した。相変わらず浅いわりに出血だけ一人前の傷のつけ方に、不謹慎ながらもシャマルは少し感心しているようだ。
「てーかお前、せめて洗ってこいよ」
 血だらけで診れやしねえ、と言ってシャマルは隅に備え付けられた手洗い場を指差した。僕は大人しく従う。静かな部屋に水音だけ響いた。乾き始めた血液は肌にこびり付くし、小さい洗い場で肘の方まで洗うのは中々やりにくい。あたりに水が飛び跳ねて、それと一緒に赤も散った。白い洗い場がまだら模様になる。
「その気になりゃいくらでも女引っ掛けられる色男が、これじゃあねえ」
 ひととおり荒い終えた後、洗面台をきれいに洗い流していた僕にシャマルが言った。見えないけれど、多分お互い背中合わせの状態だと思う。
「僕は不幸じゃない」
 まわりにタオルがなかったので腕を濡らしたまま水をぼたぼた垂らして元の位置に戻る。シャマルは濡れた床を見てあーあーと顔をしかめていた。机の上を見ても分かるが、意外ときれい好きなのだ。
「本当に不幸な奴はそう言うもんだ」
 本当に幸せな奴が不幸ぶるのと同じようにな。僕の左腕を掴んで眺めながらそう続ける。言い返さなかったが、僕は本当に不幸じゃない。そんなもの自分で決めることじゃないか。だから不幸ぶってる奴は本当に不幸なんだ。そもそも幸せってなんだ。それが分からずに不幸なんて語れるのか。ああ、言い返さなくてよかった。
「縫う必要はねえな、ほっときゃ塞がる」
 そう言いながら机の端から茶色のビンを引っ張り寄せて、中に詰まっている薬品を塗ってくれた。仕上げに包帯を巻く途中で「ツナが舐めりゃ即塞がるんじゃねえの」と毒づいたので、「当たり前だ」と返してやると、手際よく包帯留めをつけてから両手を上げ肩をすくめて「お前が言うと冗談に聞こえねえ」だそうだ。冗談じゃないんだから当然だろう。ありがとな、と短く礼を言って、脱ぎ捨てた上着とシャツと肩にかけて席を立つ。
「おい、金」
「ツケといて」
「はいはい」




 部屋を出て少し歩くとさすがに身震いした。上半身裸で歩き回るにはまだちょっと寒い。はやく部屋に戻って着替えよう、シャワーも浴びたいけどこれじゃあな…というか治療の前に浴びればよかったじゃないか。そうすれば洗う手間も省けたのに、なに考えてるんだ僕は―
『早くシャマルに診てもらってね』
 ああ、そうか、だからか。なんだ、なにもおかしくなんかないじゃないか。
 背を丸めて、鳥肌が立ち始めた腕を擦り合わせる。筋肉の上に張り付いた皮膚はいびつ。わざと怪我をするようになったのはいつからだったろうか。考えるまでもない、あなたがボスになって間もない頃、僕が目に見える大怪我をしたときからだ。
『うわ…、!大丈夫?しっかりして!』
 先代の時代から引き続いてボンゴレに属している僕は最初、その変化に当惑してしまった。ボンゴレほどのビッグファミリーを従えるゴッド・ファーザーが、たかが1人の怪我人でこんなにうろたえるなんて。狼狽はすぐ不信に繋がった。こんな調子で大丈夫なのか?心労で倒れかねないじゃないか。しかしそれがあなたのやり方だと、理解するのにそう時間はかからなかった。ファミリーの誰に対しても、それこそ本当に役職も身分も関係なく、全力で真っ向から接する。そしてそれを理解するのと、僕があなたに傾倒するのとは、ほとんど同時だった。今までコマのひとつとしてしか扱われてこなかった(それがこの世界の常識でもある)僕に、あなたは。この薄汚れた世界の中では眩しすぎる情け深さと純粋さと、ある意味での無知をもって、ひとりの生きる人間としての、という青年としての価値を、与えてくださったのですから。
 それからというもの、任務があるごとにわざと怪我をするようになった。僕のように不器用で非力な人間には、こうすることでしかあなたの気を引けないのです。あなたは本当に、あれだけの大人数を前に、完璧すぎるくらいに平等だった。その完璧さが、かえって独占欲を招くものだと、そこまでは気付いてらっしゃらないのですね。僕は僕にできる限りどんな手を尽くしてでも、1分1秒でも長くあなたのその目に映りたい。そのためにはこんな傷の1つや2つ、なんでもないのです。これが僕なりの、あなたへの思いの形なのだと思えば、一種の神聖さまで感じるのです。











……!しっかりして!」







 遠い呼び声で意識が戻った。やけに視界が白けると思ったら、天井から壁まで部屋そのものが真っ白だ。僕は今、なにをしているんだっけ―一番最近の朝から記憶を辿る。今日の任務もいつもと変わりない。しなくて済む怪我をわざわざ負って、無事完遂したはずだった。それで、ああ、そうだ。連絡しようとした矢先に頭がぐらついて、その場に倒れたんだ。通話の繋がった携帯電話のスピーカーから声が漏れてる。けれどそれに答えることができないまま、ああ、さっきの刃物に毒が塗ってあったのかな考える。僕としたことが迂闊だった―そこで記憶が途絶えた。
…聞こえる?」
 いや、やっぱり部屋は白くなかった。視神経がぼんやり動き出すと、人の顔がたくさん見えてきた。苦い表情のシャマル、険しい表情の獄寺、いまいち飲み込めていない様子の山本、相も変わらずニヒルなリボーン。そして、一番手前に、あなた。
 切なげに眉尻を下げて、唇を震わせて、大きな瞳は涙をいっぱいに溜めて頼りなげに揺れている。僕がやっとのことで目を動かして、ボス、と唇だけで呼ぶと、瞬きの拍子に涙がせきを切った。ああ、あなたが、僕のために涙を流して下さるなんて、これ以上ない―僕の心には、最後の幸せがいっぱいに満ち溢れるはずだった。
 なのに、なぜだろう
 あなたが握って下さる右手から、逃れようのない背徳感が全身を駆け巡る。その握る力が、強くなれば、なるほど。その震える声が、僕の名を呼べば、呼ぶほど。僕のために、ではなく、僕のせいで。あなたは今まで馬鹿な部下に手を焼き、そして今その清らかな涙を惜しげもなく流していらっしゃるのですか。ああ、この馬鹿で愚鈍な男を、どうか、どうか―
「ごめんなさい…」
 なんとか、聞き取れるだけの声が出た。残念ながらこれが、忌むべき僕の精一杯だった。あなたは左手の袖口でぐいと目元を拭った。赤い目はまだ濡れている。

 慈悲深い、なんて陳腐な言葉では表しきれない。この世に存在する言葉を全て集めたって、ちっとも足りない。僕には眩しすぎる微笑だった。まるでこの闇すらも明るく照らし、消し飛ばしてしまうような。あなたの瞳に僕が映っている。自分とは思えないほど、美しい青年が横たわっている。
「ありがとうね」
 ああ…あなたって人は一体どこまで―
 この瞬間を、少しでも長くと願うのに。弱い僕は鉛のような瞼の重みに耐え切れない。光が少しずつ絞られていく。ただ、最後にはっきりとしたことは、誰に何と言われようと、僕は紛れもなく

幸せだということです


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2006/7/19  background ©
創天