まったくもって春だ。提灯から流れる明かりに菜の花が濡れ、鮮やかな黄が暗闇に浮かび上がる。
 桜が春の訪れを告げるというが本当の春は、散った花びらも消え失せ、すっかり葉桜になってからではないかとは思う。新芽の柔らかい緑に、溶けて混ざり合いそうな空色と白が重なってやっと、春を実感するんじゃないかと。



meltwater



 変質者が出始める季節ということで、真選組内でも夜間の見回りが強化された。痴漢対策なら町奉行にやらせろという話だが、それに紛れる危険人物への警戒ということらしい。確かにこのところは脳内を麻痺させるような陽気が続いているし、夜間でも外を出歩くには丁度いい気温だ。穏やかな光溢れる日中に比べ、夜の闇は墨を塗りつけたように濃く暗い。
 あまりいい印象を持たれないので進んで自分からは言わないが、春夏は好きじゃない。秋冬の方が好きだ。気温が上がるにつれて湿気も上がり、それが肌にまとわり付くのがは好きではなかった。まるで、冬の間に固く凍り付いていた空気が太陽の熱で溶けて流れ出すかのよう。怪談が流行りだす季節になるな、と鼻が思い出した。
 空は半分近くが濁った雲に覆われて月も見えないが、雨が降っていないのは救いだった。春夏の雨はいけない。湿気だけで参っているというのに、それが形になって降り注いではお手上げだ。砂糖水みたいにべたつく夏の雨に比べて、冬の雨は冷たくても上品だと思う。


 だいぶ長い距離を歩き回ったのでさすがに体が汗ばんできた。通気性が悪く重苦しい制服が煩わしい。せめて首元を開けようとボタンに手を掛けたところで、向かいの人影に気付いた。こちらに向かって壁伝いに歩いてくるが、不規則な動きをしている。
「おい、ちょっとあん…」
 どうせ酔っ払いだろうが職業柄無視もできない。は右手に持った提灯を高く掲げて相手を照らした。男は顔を伏せていたが、夜に浮かぶ白い頭だけで身元確認には十分だった。
「銀時!」
「あ〜…?」
「なにしてんのお前…」
 泥酔、と言うにふさわしい、見事な酔いっぷりだった。ゆるりと上げられた顔には虚ろな目がぶら下がっている。が冷たい視線でそれを見下ろしていると、塀に掛けていた腕をの肩に移してきた。
こそなにしてんの〜?なに、飲み行く?」
「仕事中だっつの」
「つれな〜い」
「うっわ、酒くさ!」
 の鎖骨に顎を乗せ、覗き込んでくる。夏の夜を凝縮したような吐息には顔をしかめた。触れた先から伝わる体温は病的に高く溶けそうなほど熱い。肘を張って押し返そうにも、べろんべろんの体は軟体動物のようにそれを受け流し、飲もうよ〜とだらしないうわ言を繰り返しながら尚もにまとわり付く。
「くーっつくな!くさい!」
「じゃあもくさくなっちゃえばいいよ〜」
「は…!?」
 銀時は空いた手に持っていたガラスの酒カップを目の前の唇に押し付け、の口内にはぬるいアルコールが流れ込んだ。容量のわりに角度がきつく、含みきれなかった分が口の端から溢れて顎、首へ伝い、最終的にシャツの襟にじんわり染み込むのを感じる。
「ぶっは、うげえ…」
「うわ〜えろーいもったいなーい」
 喉が焼ける感覚と、胃から蒸し返す臭気には舌を出して不快を露にした。もともと酒は強い方ではない。手の甲で口元を拭ったが、首に垂れた分には銀時が舌を絡ませてきた。熱の塊が直接ぶつかり、その熱さとぬるりとした感覚には大声を上げそうになる。唇をきっと結んでそれを抑え、力ずくでも押し返してやろうと腕に力を込めた。
「いーじゃん春なんだしさあ」
 眉間に皺を寄せたと、いつもの7割方しか開いていない銀時の目が合う。の手に持たれた提灯の橙だけが、2人の顔を斜め下から照らし上げていた。そうか。薄く開いた唇の隙間で、声には出さずにがつぶやく。そうか、春だもんな。左手首の腕時計を明かりにかざしながら横顔で返した。
「…いい店あんの?」
「ここの先の屋台がうまいのよ〜」
 酒カップを持ったままの銀時の右手から人差し指が起き上がり、前方をゆらりと指した。


「ちょ、お前自分で歩けよ!てか変なとこ触んな!」
「あるいてるよ〜さわってないよ〜」
 2、3歩踏み出したところで半身の重みにが声を上げるが、それは届かない様子でむしろ重みは増す一方。やれやれと眉尻を下げたは提灯を持ち替え、隣の背中に腕を回した。
 まあいいだろう、春だし



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2006/4/23  background ©RainDrop