呼吸をするのも面倒になるときというのが本当にあるらしい。さきほどから息も、肌も、脳内もすべて横一線、それを取り巻く外気と同じ温度・湿度で保たれている。ひとたび目を閉じればたちまち自他の境界線は曖昧に溶け出して、裏側に貼りつく畳のい草のざらざらした感覚は遠のき、このまま空気と同化してしまうんじゃないかと思う。セミだってもう夏だからという理由だけで引くに引けなくて、半ばヤケになってるんじゃないかと思わせる乱暴な鳴きっぷり。
 横に長い縁側の向こう側には沸騰しそうな中庭、上にはクレヨンで塗ったような空、その中に浮かぶ雲の誇らしげな質感はきっと、この地上では存在を許されていない。



カゼマチ



 セミの濁音に満たされた空間の隅で板張りが小さくきしみ、べたつく表面と素足の裏がぺたぺた音を立てる。縁側に頭を向けているのでよく聞こえた。それが一歩ずつ近付き大きくなり、一度途切れたかと思ったら畳がしわりと鳴った。投げ出されている自分の腕のすぐそばに生き物のにおいを感じる。
 上を向いた手のひら、そこから伸びる力なく曲がった指はぴくりともしない。どしゃりと畳がひとつ大きく擦れて、男がすぐそこに腰を下ろしたのだと分かった。もそりと懐をまさぐる音、ライターはカチカチと2度空回った後3度目で火がつく。いつも持ち歩いているシルバーのジッポではなさそうだった。そちらは隊服の内ポケットに入れっぱなしなのだろう、休みの日はだいたい適当なプラスチックのライターを使っている。じゅわ、と煙草の先が焼け焦げ、ひゅるひゅると紫煙が漏れる。
「いつまで寝てんだよ」
 触覚が麻痺し始めていた手首をぐいと引っつかんだ手は、には火傷するほど熱く感じた。持て余した熱を野放しにしてようやく均衡が保たれていたのに、それを発熱体に取り押さえられては当然の感覚だった。加えてしっとりと汗ばんだ密着感。が拒否を示すには十分だった。
 振り払った腕はぽとりと腹の上に落ちた。そうすると自分の熱でも火傷しそうで、腕はまたすぐに元の位置に転がる。表面積で少しも損をするわけにはいかなかった。再びじゅわ、と煙草が焦げる。長く息が吐かれたが、溜息と違うのはよく分かった。みしっと畳が揺れて、男の存在が遠ざかっていく。

 額から湧き出た汗の粒がついに重みに耐え切れず、こめかみを横切り耳の裏を通ってじりじりと頭の裏に落ちた。喉元に浮いていた分も、鎖骨を伝って肩を通り、着流しの襟に染みていく。多湿のこの状態では汗が気化する余地もなく、ただ水分と塩分を垂れ流す様は実に頭が悪そうに思える。気管を経由する息は吸っても吐いても同じ色。

 足音が戻ってきた。持ってきたグラスが氷と擦れてカランカランという涼しげな音を立てている。給湯室の食器棚の左上にある背の高いやつだと思う。だいぶ年季が入り傷で曇っているため、隊員が個人的に使用する場合は大抵このグラスだった。入っているのは大方、冷蔵庫に大量に作り置きされている麦茶だろう。載せている盆は丸くて1番小さいやつだ。フチがピザのミミみたいに盛り上がっていて、少し色がはげている。
 男はさっきと同じ位置にあぐらをかいた。傾けられたグラスの中で氷がカラコロと転がり、喉がぐんぐん鳴る。そこではやっと、自分の喉が渇いていることに気が付いた。コツンと男のグラスが盆に戻る。ねばつく口内のつばを無理に飲み込むと、汗ばむ喉の裏側で食道が貼りついた。
「水分とらねえと干からびるぞ」
 この季候では乾く前に腐りそうだった。は後ろに肘をつきやっとの思いで畳から背中を引きはがし、斜め後方にあるまだ手の付けられていない方のグラスをぐいとあおる。性急すぎて角度を誤り、口の端から麦茶が一筋溢れて喉を伝って胸に落ちた。
 8割以上飲んだところで呼吸がきつくなり、一旦唇を離して息を逃がす。グラスの内側が曇った。流し込んだ冷水は喉から垂直に滑り落ち、空っぽの腹の底にずしりと落ち着いた。内側から急に冷やされ、内外の温度差について行けない様子の腹を軽くさする。
 はかったように、庭先の青葉が一斉にさらさらと擦れた。
 背中から首筋へ、わだかまる熱を撫でるような感覚には思わず振り向く。土方のボサボサに跳ねた黒髪がゆるゆるとなびいて、咥えた煙草の先から漏れる煙が水平に流れ込んで鼻をくすぐる。は恍惚の表情を隠せなかった。


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2006/9/3  background ©0501