精一杯背伸びしたって、


その足は震えてる


「こーら。何してんの」
 足の短い正方形のテーブルはつや消しのブラックでスマートなフォルムをしている。向かいでつけっ放しになっているテレビは今日一日のニュースを延々と流しているが、今朝新聞で読んだ内容ばかりなのでさして興味がない。テーブルはこたつにはなっていないが横に置かれた電気ヒーターの熱が伝わってくるので少し眠くなってきた。テーブルの隅に置かれた煙草のボックスから一本取り出す。なんともなしに片手でもてあそんでいると、上からの声に制された。
「高校生にはまだ早い」
 そう続けたは両手に乗せていた食器をテーブルの上に並べると、土方の手からそれを取り上げる。そのまま箱の中に戻し、部屋着のだぼだぼスウェットのポケットにつっこんだ。
「吸えよ」
「いいよ。気ぃ使ってんじゃなくて気分じゃないだけ」
 気にくわなそうな土方に「運ぶの手伝って」とキッチンから声が掛かる。渋々腰を上げて皿を運ぶと2往復ほどで夕飯の準備が整った。今夜は炒飯と野菜炒めとコンソメスープと、余りの漬物。毎度質素だが男の一人暮らしにしては努力している方だと土方は思う。
 最後にお茶の入ったグラスをふたつ持ってきたが向かい座った。捲り上げていたトレーナーの袖を伸ばし、「いただきます」と冷えた手をこすり合わせる。「味濃くない?」「ちょうどいい」など二言三言交わしたところでの携帯が鳴った。こもった音は壁に掛かったブルゾンの中から。一度箸を置き、ポケットをさぐる途中で着信音が切れる。メールだろうか。携帯は右ではなく左に入っていた。
「誰」
「あー、大学の友達」
「何だって」
「今日出た課題について」
 そう言っては手早く返事を打ち始めた。彼が嘘をつくとは思っていないが、なんともなしに土方も箸を休めてその様子を見ている。返信し終えて顔を上げたはそれに気づき、ごめんと一言謝って箸を取る。土方も気まずくなったので、いや、と言葉を濁し、野菜に箸を伸ばしながら切り出した。
「大学楽しい?」
 は口の中の米をもぐもぐ噛みながら視線を上に泳がせて、ごくんと飲み込んでから答える。
「んーまあ、そうだなー、思ってたくらいには。トシは今が頑張り時だな」
 お茶を一口含んだ土方はちらっとを見やってから、言葉には出さずにただ頷いた。
「…わり。禁句だな」
 不機嫌そうに曇った表情に、が苦笑いして詫びる。土方は「いいよ別に」と軽く一言返した。

 は土方が入学したときの3年生で、同じ剣道部の先輩だった。1年間一緒に部活に励む中で土方の方から次第に惹かれ、翌年の卒業式に告白して以来の仲だ。それから2年近くが経った現在は、大学に進学したは2年生になり成人式を控え、高校3年生になった土方は受験勉強に追われる日々。
 の両親は彼の高校在学中に転勤で遠方へ移った。彼には転校する選択もあったが、こちらの大学を志望していたため近くの親戚の家に下宿しながら高校に通い、大学進学後は一人暮しをしている。高校からそう遠くない上ふたりきりで過ごせるとあって土方は足繁く通っていたが、忙しさの増しているこの頃はまわりの目もあり回数は少なくなっていた。優秀な土方に対する周囲の期待は大きい。
 それでも電話やメールだけでは足りないことがたくさんあるわけで、なまじ足の届く範囲だけに若い土方の我慢にも限界がある。そういうのは決まって突然訪れるもので、それがまさに今日の夕方、学校帰りの塾に向かう途中だった。「今から行く」と電話でに伝える頃にはもう既に彼の家のドアの前に着いていて、電話口で咎めようとしたもさすがに追い返すわけには行かなかった。

「明日学校?」
 ほぼ空になった食器をまとめて重ねているとき、唐突に土方が切り出した。少し間をおいた後、は視線を斜め下に泳がせて時間割を思い起こす。今日は水曜日だ。
「あー、明日は午後から」
「じゃあ午前中まではいてもいい」
 土方は質問をするときたまに、語尾を上げない聞き方をする。食事中もそうだった。それは肯定を前提とした、疑問よりむしろ強制に近いニュアンスを含んでいて、はこの喋り方に弱かった。一度ぐっと喉を鳴らしたあと冷静に返す。
「学校は」
「休み」
「なんで」
「…創立記念日」
 今度は土方が口をつぐむ。ばつが悪そうに目を逸らして咄嗟につぶやいた言葉に、は一転して顔を綻ばせた。
「わかった。昼飯食ったら行けよ」
 重ねた食器を抱えて立ち上がったを土方はぱっと見上げたが、その笑い方にまたすぐ目を逸らす。蛇口から流れる水の音に紛れて「残ってるの持ってきて」と言われたが動かずにいると、追って「トシー」と呼ばれるので仕方なく片付けた。グラスと食器を預けると、もうすぐ風呂の準備できるからなんて言われて土方の心情はますます晴れない。

 風呂から上がって向かいにある流し台を見ると、食器はもう洗い終わっていた。電気も消されているので薄暗く、フローリングは冷たい。の部屋は1Kで、キッチンと部屋の間に仕切りがないので代わりにカーテンが下がっている。その裾から部屋の明かりと一緒に声が漏れてきた。テレビの音とは違い、が電話で話している声だとすぐに分かる。気後れはしたが、土方は足音を立てないよう忍び寄りそっとカーテンに耳を当てた。
「―はい、午後にはちゃんと行かせますんで…うん、お願いします」
 土方の眉間にしわが寄る。
「ええ?あー、うん…ばれちゃってますかね。はは」
 その後、いくらか会話が続いて電話が切れるのを待ってからカーテンを開けた。切ってすぐだったため背を向けていたは少し慌てたように振り向く。それでも土方が特になにも言わずに向かいに座ったのを見て、早かったな、と携帯をテーブルの下に置いた。
「あれ、それちょっと小さいか?」
 に借りたトレーナーは、土方が着ると九部袖くらいになってしまっていた。土方の高校入学当初、出会ったばかりの頃は背丈も同じくらいで、むしろの方が若干高いくらいだったのだが、付き合いだした頃から土方の背が伸びだして今ではすっかり逆転している。寒そうな格好の土方には申し訳なさそうに言った。
「でもそれ以上でかいのないからな〜、わりーけど我慢して」
「べつに平気」
 袖口から中途半端にはみ出した腕先を見て土方はそっけなく返す。それじゃとは腰を上げて、先寝ててもいいよと残して部屋を出た。土方は寝るもんかと思ったが言わなかった。それよりも携帯が気になって仕方ない。テーブルの下にくぐらせた腕をそうっと伸ばそうとしたが、そこで急に「トシー」という呼び声とともにシャッとカーテンが開いたので、つんつるてんの腕も咄嗟に引っ込んだ。驚いた顔で振り向くとタオルを投げつけられる。
「風邪ひくからちゃんと髪拭けなー」
 それだけ言ってまたは奥に消えた。なんとも腑に落ちないが濡れたままの髪が冷えていたのは確かだったので、土方は受け取ったタオルを頭に被せて軽くさする。風呂場のドアがガラガラとスライドするた音を確認したところでタオルを肩に掛け、もう一度携帯に腕を伸ばし、今度は捕らえることができた。


 が風呂から上がると、テレビが消されて部屋は静まり返っていた。明かりとヒーターはついていたが土方は部屋の端の布団に横になっていて、背を向けたまま動く気配がない。そろそろと足を伸ばして布団に膝をつき、反対側を向いている顔を覗き込んでみる。自分の体で陰になって表情がよく見えない。
「トシ?寝ちゃっ―」
 声を掛けた瞬間に土方の目がぱちりとひらき、反転した体から伸びた腕が、反応しきれないを押し倒した。
「俺だってもうガキじゃねえよ」
「―…え、なに、どうした?」
「さっきの電話、聞いてた」
 目を丸くしていただったが、電話の話をされて動きを止めた。蛍光灯が逆光になって、もともと真っ黒な土方の髪をさらに濃い色にして見せる。
「近藤さんからだろ」
 例の、語尾を上げない疑問系だった。
 高校教師の近藤は剣道部の顧問だ。温かい人柄で生徒からよく慕われ、2人も例に漏れず世話になった。現在の関係も話してあるため、とは今でも連絡を取っている。今回の件は近藤から連絡が入っている点からして、同じ塾に通っている沖田がさぼりを近藤にチクったのだろうと土方は容易に推測できた。程度のほどは知ったことではないが沖田もに対してそれなりに好意を持っていたようで、2人の関係が面白くないのかきっかけを見つけてはこうして首を突っ込んでくることが間々ある。近藤も近藤で心配性なので、こうしてわざわざ連絡をよこすのだ。盗み聞いた内容からするに、明日ちゃんと学校へ来させるように確認したのだろう。しかし何より土方を苛立たせたのは、それにへらへらと従うの態度。
「…いつまで先輩後輩のつもりだよ」
 太くて低い声と影の中で光る鋭い目に、は咄嗟に言葉が出ない。
「なんで保護者みてえな面すんだよ!」
「保護者、なんかじゃないよ」
 土方にしては珍しく大きな声を出す。目に光っているのは滲んだ涙だったことに気づき、はたまらず両腕を伸ばして抱きよせた。しばらくそのまま黙っていたが、土方の攻めるような沈黙に観念し苦笑いで口を割る。
「近藤さん、呆れてた。サボりほう助したくせに、電話口の声が嬉しそうでしょうがないって」
 首筋にうもれていた土方が少し顔を上げてを見る。無言で続きを促され、は参ったな、という風にますます苦笑した。
「トシは後輩なのに、昔からしっかりしててさ…でも俺だって一応先輩だし、ちゃんとしてるとこ見せなきゃと思って。……実のとこ、トシの前では結構見栄張ってたんだ、俺」
「例えば」
 具体的な事例が思い当たらないので間髪いれず土方が聞き返すと、は言いづらそうに唇をもごつかせてはしばらくの間視線を泳がせた。それでも土方の視線から逃れられないことを悟ると、おずおずと口を開き小声で漏らす。
「一緒に飯食いに行ったとき、ピーマンも我慢して食べる…とか、部室のロッカーはきれいに使う、とか…」
「それだけ?」
「あ・と…朝いつも頑張って先に起きるけど、ほんとは早起きだって苦手だし、部屋だっていつもはもっと汚いし、煙草もそんなに好きじゃないし…」
 言いながら、土方の至近距離での顔がみるみる紅潮していき、体もカッカして熱くなってきた。最後の方はもうほとんど聞き取れないくらいで、言い終わったとたん顔を手で覆ってしまう。土方は安堵したのとくすぐったいのとで、思わず噴き出した。
「…っなんだそれ」
「わ、らうなあ!…あーもう………絶対言わないつもりだったのに…」
 真っ赤な顔のまま言い返すと、再び顔を隠していじけたように背を向けてしまった。土方は甘酸っぱい感覚をかみ締めて丸まった背に寄り添い、また湿り気といい香りの残る襟足に鼻をすりよせた。がゆるく肩をすくめるのを抑えてうなじに口付ける。飛び出ている耳がこれ以上ないほど赤くなった。一呼吸置いて無理やり落ち着かせたのか、よれよれの声でが打ち明ける。
「だから…今日もうれしいんだ。トシの意外と子供っぽいとこ見つけたときとか、俺に甘えてくれたときは、いつもうれしい。から、もっと頑張ろうって、なる」
「―こっち向いて」
「………」

 肩を引いて強引に振り向かせると、まだほんのり赤い顔をしていた。気まずそうに伏せている顔を斜めに覗き込んで、すくい上げるようにキスをする。胸の奥がむずむずと温かくて、一度縮めた距離はとても離れ難かった。



 窓際のカーテンの隙間から差し込む明かりが顔にかかり、まぶた越しのまぶしさに土方は細く目を開けた。枕のそばに置いてある目覚まし時計を手だけで探り当て、かすむ目をしかめて文字板と針を読み取る。もうすぐ今日の半分が終わろうとしていたが、あまり驚かずに時計を元の位置に戻した。一晩つけっぱなしの照明やヒーターにも気づいたが布団から出る気はしないので、冷えた腕を温もりの中に引き込んでの方に向き直る。本当に早起きは苦手らしく、目覚ましなしでは起きそうにない。つんととがった鼻を指先で軽くつついても、一度すんと鼻をすすっただけで再び規則的な寝息を立て始めた。これからはこんなことが当たり前になるのだと思うと昂ぶる感情が抑えられなくて、土方は起こさないようにそっとの額に唇を当てた。これからは、こんな朝にもわざわざたぬき寝入りをする必要もないし、汚い押入れを咄嗟に隠すときの慌て顔や、いつも新しい煙草に無駄な詮索もしなくていいのだ。

 飽きることなく寝顔を眺めたり、一緒にちょっとうとうとしたりしているうちにいくらか時間が流れた。さすがのも寝足りたようで、まぶたをこすりながら目を覚ました。のん気に「おはよう」なんて言うので、土方も同じように返す。頭だけもたげたはまだ開けきらない目で時計を確認する。時間をかけてやっと読み取り、「ああ!」と一気に眠気も飛んだようだった。
「トシ、時間……!」
「なに」
 急いで起きようとするの体に土方の腕が絡まる。落ち着いた様子には言葉を詰まらせた。
「学、校…」
「見栄張らなくていいんだけど」
 分かっているくせに、土方は絶対に言わせるつもりらしい。懲りずにまたは真っ赤に顔を染めた。土方の腕が力を増すので、降参とばかりに額を胸に預ける。
「行かせたくない…です」
「俺も行きたくない」
 満足げに土方が笑ったところで、携帯の着信音が流れた。枕もとに置いていた土方のほうだった。腕を伸ばして折りたたみの本体をぱかっと開ける間も、機械的なメロディは流れ続けている。
「だれ?」
「ん」
「う、わ」
 土方が見せつけたディスプレイには「着信:近藤さん」と表示されていて、相変わらず着信音は止まらない。慌てるをよそに土方は電源ボタンを力いっぱい押して、強引に電源を切った。おとなしくなった携帯を元の位置に放る。
「…あとで知らないよ」
「お互い様だろ」
 言うが早いか、テーブル下に置いたままだったの携帯が鳴り出した。起き上がろうとしたを土方が制す。は一度目で確認したが、そのまま土方に従った。延々鳴り続ける着メロに聞き飽きたころ、伝言メモに切り替わってやっと静かになる。二度目の着信はもうなかった。



妄想もここまでくると軽い病気だな
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2006/12/24  background ©RainDrop