「もうやめろよ」でも、「もうやめよう」でも、「もうやめる」でも、どれでもいいのに。
まるでなにかに囚われたよう。その一言がいえない。
きみの尾を噛む
こちらの気持ちに気付く気配はまったくない。それもそのはず、お互いずいぶんと長い付き合いだ。彼は自分の女遊びについてもよく知っていたし、まさか男(しかもこんなに気の知れた)を好きになるなんて、自分でも驚いているくらいなのだから。
「お前さ、考えねえの」
向かいで晩飯の出前そば(月見)をすすっているに尋ねた。自分はもうずいぶん先に食べ終えて、食後の一服ももう2本目だ。こいつは本当に食べるのが遅い。そばだってもうとっくに伸びてるだろう。あ、伸びてるからなかなか減らないのか。
質問に対しては口の中をもぐもぐ言わせながら「なにを?」と返し、割り箸でどんぶりの中をひとかきする。こうして副長室で2人で食事をするのはよくあることだった。他の隊士が広間でやいのやいの騒いでいるのが廊下を通じて聞こえるが、お互いあまりそういうのが好きじゃない。
「もっと早く出会ってたらって」
「―考えないわけじゃないけど」
質問の続きにはいったん黙った。は不倫をしている。不倫といっても、男―もちろん妻子ある―と。
「そしたらきっとこうはならなかったよ」
「なんで」
立て続けに聞くのであまり心地よく思わなかったのか、の口数が減る。もともとお喋りな方ではないが。
男のことに関しては、最初の頃から土方に対してだけはよく喋った。べつに特別な理由などではなく、こうして気の合うもの同士仲良くしている期間が長かったからだろう。静かに2人で夕食を共にするときなど、普段はちょっと言いにくい話だって口を割りやすい。
相手の男は行きつけの呉服屋の店主だそうだ。店の名前までは言わなかったが土方は知っていたし店にも行ったことがあったので顔くらいは分かった。店主といっても若くて、自分とさして変わらなそうだと思っていたら案の定1つか2つ違いだった。からすると3、4つ上ということになる。
「そう言われた」
は淡々と言ったが、それは重大発言だった。出会うのが遅かれ早かれ、恋人にはならなかったと。所詮は遊び相手だと。―そう言われたと?
相手が遊び感覚なのはの話の節々からも感じられたし、本人も分かっていると思う。それでもどう考えたっての方が重いのだ。予定だって自分の思い通りに組めやしない、それなのに。は不倫をしている。
*
食堂で一緒に昼食をとっているとき。やっぱり食べるのが遅いが食べ終えるのを待ちながら、土方は煙草に火をつけた。ライターをテーブルに放り細長い煙を吐く。ふうーという息の音に顔を上げたは、定食のコロッケの最後のひとかけらを口に入れ、2、3度噛んでから歯切れの悪い声を漏らした。口の端にころもが付いている。
「トシ、あのさ、今晩なんだけど…」
伏目で話すに、土方は片眉をちいさく吊り上げた。先日親戚から珍しい日本酒を分けてもらったので、今晩2人で飲もうと約束していたのだ。他の隊士にも分けるのがいい上司というものだろうが、それにしては量が足りない。というか酒を騒ぐ口実くらいにしか思っていない奴らに飲ませるのはもったいなかった。
「ちょっと、時間繰り上げてもいい?」
「構うなよ。今度でいい」
「あ・いや、そうじゃなくって!早い時間なら…」
「いい」
「でも…」
「いいっつってんだろ!」
まだ長さの残る煙草を灰皿にねじ伏せた。はきゅっと口をつぐみ、恐る恐る目だけで土方の様子を伺っている。
「…ごめん」
本当につらそうに謝るので、土方は堪らなくなって乱暴に席を立った。からしたら怒っているようにしか見えなかっただろうが、仕方なかった。自分の優先順位が低いのが、気に入らないわけじゃない。そんなことで怒ってるんじゃない。不器用さにはつくづく閉口する。
好きになったのはいつからだろう。自分でもよく分からない。少なくともかなり前から仲はよかった。いくら隊長とはいえ、副長に敬語もなしに話しかけるのはくらいだ。それでも女に抱くのと同じような感情を自覚したことはなかった。
気付いたのは、から男の話を聞くようになってからだった。妬きもちと言われればその通りだ。ただその瞬間から自分はのことが好きで、もしかしたら気付いていなかっただけで実はもっとずっと前から好きだったかもしれなくて、そして今も間違いなく好きでいる。
ただ、でも、もし、その切欠がなかったら。そしたら自分はこの気持ちに気付くことはなくて、好きになることもなかったんじゃないかと。それを完全に否定する自信が土方にはなかった。は自分にはすっかり気を許しているし、その気になれば強引に抱くことだってできる。そうでなくても気持ちくらいは伝えられる。なのにそうしないのは、他でもないその後ろめたさからだった。
その日の晩、もうずいぶんと遅い時間だったが、襖をトントン叩く音で目が覚めた。働かない頭で咄嗟にポルターガイストかと思いぎょっとしたが、「トシ」と静かに呼ぶ声で頭も冷えた。
「入れよ」
体を起こし、枕に押しつぶされてぺたっとなっている髪を掻く。細く開いた襖の隙間から片目だけ覗かせているのが見えた。
「…怒ってねえよ」
言うと少し安心したのか、はするすると中へ入り、布団の横に置いてあるテーブルの横にぺたりと腰を下ろした。机の上に腕を組むと、そこに顔をうずめて黙りこくる。土方はやれやれと布団から抜け出して向かいに座った。ちょっと寒かったが我慢した。
「なんか言われたのか」
「…彼女ができたら教えろって」
突っ伏しているの声が机の板に響いた。なんだそりゃ。ふざけた奴だ。思ったが土方は言わなかった。の前で男の悪口は言わないようにしている。というより、言えない、のだけど。
「なんで」
「そしたら別れるからって」
土方は言葉を失った。なんという偽善者だろう。しかし不倫をする奴なんてきっとみんなそうだ。相反する2人に、同じように甘い顔をしているのだから。これにはさすがのも頭にきたのだろうと思い、土方は初めてその男を批判しようと、思ったのだけれど。
「できたって、ぜったい言ってやんない」
土方はまた言葉を失う。
「ぜったい別れてなんかやらない」
そこまでお前を突き動かすのはなんなんだ―なあ、他にもっといるだろう。男だって、女だって。
土方には情けなくもかける言葉が見つからなかったので、小さくうずくまっているの頭をできるだけ優しく撫でた。それだけでもには救いになったようで、しばらくたっぷりと間をおいた後、自分からぽつぽつと話し始める。
「これ以上の人なんていないよ」
土方は特に意味も感情も込めず、ただ間をつなぐためだけに「うん」と言った。本当に不器用だ。
「この先、他の人とも付き合うだろうけど、今以上に好きな人なんてできない」
もうひとつ「うん」とは言えなかった。なぜそこまで言えるのか、本当に分からない。
でも、そんなこと言ったら自分だってそうだ。今自分は確かにを愛しているけれど、今までにないほど愛しているけれど、これが人生最大だなんてどうして言えよう。先は見えないのに―それでもそう言い切れるのが、運命、だとでも?
はそれきりでまた黙ってしまう。顔も上げないので、土方は頭を撫で続けた。泣いているわけではないと思う。寝てしまったのであればそれでいい。
ついさっきまで、ずる賢い偽善者の腕に抱かれていたのだ、この体は。そう考えるだけで熱を帯び、暴れだしてしまいそうなこの手を、取ってはくれないだろうか。不確かな運命よりも、確かな偶然を―選んではくれないだろうか。
*
延期されていた酒飲みは数日後に実施された。
「そういえばトシ、最近遊んでなくない?」
給湯室の戸棚から勝手に拝借してきたあたりめは湿気ていて硬い。それをくちゃくちゃ噛みながらは唐突に聞いてきた。
「どしたの?本命ができたの?」
その通りだが土方はゆるく否定した。
「じゃあなんでなんで?そんなんで溜まんないの?」
溜まるっつーの。おかげで右手が毎晩忙しいっつーの。
いつも一方的にが自分のことを話すので自分は聞き手に回る方が圧倒的に多かったから、そんな風に質問攻めに会うと調子が狂う。土方は「べつに」とはぐらかそうとしたが
「俺でよかったら手伝ったげよっか?」
向かいのが身を乗り出して、机に手をついて迫ってきた。
重たそうな目
赤らんだ頬
濡れた唇
酔っているのか?
「―ざけんな!」
ぞくりとした感覚が体を突き抜けたので、土方は咄嗟にその肩を跳ね返していた。自分が思う以上に取り乱していたようだった。の目が悲しい色をしているのにやっと気付く。
「ご、め…気持ち悪い・よな。うん…ほんとごめん。忘れて」
飲みかけのグラスを残しては部屋を出て行った。土方は追わなかった。思考に忙しくて、固まったように動けなかった。
全ては推測の域を出ない。それでも、あれは悪ふざけではなかったとしたら?彼なりの挑戦だったとしたら?不毛な恋愛は辞めにして、新しくちゃんと人を愛そうとして、手を伸ばした先が、俺だったのだとしたら?
駆けつけた部屋は空っぽだった。殺伐とした空間にハンガーがひとつ転がっている。上着が掛けられていたものだろう。土方は目を閉じて天を仰いだ。こんな演技くさいこと、まさか本気でやるはめになるとは思わなかった。
もううんざりだ。俺も、お前も、あの男も。
もううんざりだ。寄せては返すのくりかえし。
もううんざりだ。渦巻く胸中とは裏腹、現状は少しも表情を変えない。
もう、本当にうんざりだ。それでも抜け出せないのを、他でもない本人が一番よく知っているから。
back
2007/4/1 background ©0501