「っ」
ずしっ
「ふごおおォ!!」
「朝だぜィ」
朝、目を覚ますには十分すぎる重みにが目を開けると、目の前には自らの腹の上に跨った我が上司・沖田総悟の、罪悪感の欠片もない、まあるい瞳。
需要と供給と欲求
「…隊長」
「何だィ」
正直呼吸をするのもしんどいのだが、はそのまま言葉を続けた。
「僕、今日非番なんですけど」
「知ってらァ。俺もだぜィ」
「そうですか。……寝かせて下さい」
「どーぞ」
と言って、沖田はちっとも動かない。
「………苦しいです」
「そうかィ」
と言って、沖田はやっぱり動かない。
「………」
「………」
「……あ〜〜分かりました分かりました!起きますよ!!」
「何だィ。休みの日ぐれぇゆっくり寝りゃいいじゃねぇか」
はがばっと起き上がって腹の上の沖田を押し返し、白々しい台詞に、じろりと恨めしそうな目線を投げる。当の沖田はしれっとした様子で目線を右斜め上あたりに泳がせていた。
「はー…」
それを見たはだいぶ老け込んだような溜息を吐いて起き上がり、洗面台に向かった。「溜息ばっか吐いてると幸せが逃げるぜィ」という沖田の声を聞きながら。
起き抜けで朦朧としたまま廊下を渡って、風呂場横の洗面所へ。冷水でざばざばと顔を洗って、歯磨き粉を歯ブラシに付けて、
シャコシャコ、シャ…
「ぶえっ!!げぇっほ、げほ!かはっ…!?」
口内の異変にが勢いよく咳き込む。舌が痺れて、それが鼻にツンと抜けるように痛い。吐き出したら緑、慌てて先程のチューブを手に取ってよく見ると、
「わ、さび……っ!!」
『特選 国産本わさび使用』の文字が視界に霞む。こんな常識を超えた悪戯、犯人は疑うまでもなく。
「目が覚めたかィ」
「沖田隊長…!!」
ドアの隙間から顔を半分覗かせて、ニヤリと笑ってサッと消えた。性懲りもなくまた嫌がらせを仕掛けてくる沖田にも、こんなベタな悪戯に引っ掛かってしまう自分にも、どうしようもなく腹が立ったが、今はとにかく口を濯ぐことしかできない。
「あー…なんかまだスースーする…」
冷水とわさびとですっかり赤く染まった目鼻をタオルで抑えたが、来た廊下を戻る。散々水を浴びたお蔭で怒りは収まってしまった。
「あっ、ー!」
「退…おはよ」
中庭から、ラケット片手に山崎が声を掛けてきた。
「も今日休み?」
「うん。ほんとはもっと寝てるつもりだったんだけどねー…」
「ふーん?ね、暇なら相手してよ!」
「ミントン?いいねぇ、やろやろ!」
気分転換とストレス解消にラケットでも振り回してやろうと、は縁側から降りて近くにあったサンダルを適当に引っ掛ける。さあ、と気合十分に腕をまくったところで、背後から突き刺すような気配を感じての笑顔が固まった。
振り向いて確認するまでもない彼の存在に、はまた1つ溜息を吐いて、
「
―――……ごめん、退。やっぱやめとくわ」
「え?なんで?」
ラケットを2人分準備していた山崎は、拍子抜けした顔をする。
「いや、ちょっと…用事思い出した」
「そっかー」
「うん、ごめん、また今度ね」
申し訳なさそうな笑みを浮かべて山崎に手を振ったは再び中に上がってつかつか歩き、廊下に面して少しだけ開いている障子をスパンと全開にする。
「…で?何しますか沖田隊長?」
中には案の定、明らかにつまらなそうな顔で唇を尖らせている沖田が畳の上で胡坐をかいていた。上から問いかけるに、沖田はそっぽを向いたままつんとした態度を崩さない。今度は聞こえないように溜息を吐いたが、更に問い詰める。
「将棋ですか?囲碁?オセロ?トランプ?ウノ?」
「…碁盤でオセロ」
「はいはい」
耳を澄まさないと聞こえない程の声でぼそっと沖田が呟いた。それをきっちり聞き取ったは、部屋の奥の押入れの襖を開けて中を探る。
「はい、ありましたよ。始めましょ」
は押入れから碁盤と碁石と座布団を持ち出して明るい縁側に並べ、相変わらず薄暗い部屋の中でむすっとしている沖田を手招きで呼ぶ。
「ほら、隊長。僕勝手に始めちゃいますよー」
2度目の呼びかけで、ようやっと腰を上げた。
パチ、パチ
本来なら線の交わった目の上で繰り広げられるべき試合は、不本意そうな碁盤のマス目の中で行われている。
というか、本来コマを裏返せば白黒が入れ替われるものなのに、この場合はわざわざ石を置き換えなくてはならず非常に面倒である。それでも碁盤の上は白と黒で埋まってきた。
「僕勝っちゃいますよ隊長」
沖田の黒を、自分の白に置き換えながらが言う。碁盤の上は明らかに、半分以上を白が占めていた。更にこの一手で、一列ずらっと白が揃う事になる。
パチ、パチ、…パチ。
が全て置き換え終わったところで、次は沖田の番…のはずが。
ガジャガジャッ
「あああああっ!」
沖田の両手が碁盤の上をぐちゃぐちゃに掻き混ぜてしまった。あちこちに碁石が飛び散る。
「つまんねェ」
「アンタねえ〜〜……」
ゴロン、と、ちっとも悪びれる様子もなく寝転がって沖田が言う。は恨めしそうに、散らかった碁石を片付け始めた。縁側の下の方まで飛び散っていて、わざわざ下に降りて拾わなくてはならなかった。
「…よいしょっと」
全て片付け終わったは、押入れに碁盤などを戻す。背中を向けて横になっている沖田を横目に、少し考えた後、給湯室に向かった。
「はい、どーぞ」
湯飲みを2つ持って帰って来たが、片方を沖田の横に置いて隣に座る。縁側から足を投げ出してブラブラさせながら2、3口啜って、
「隊長、僕ね、」
もごろっと横になる。隣の沖田の顔は見えなくても、目ははっきり開けているんだろうから。
「一番隊に入ったこと、後悔してないですよ」
黙ったまま動かない沖田の表情を頭の中で想像して。軒の向こうでのんびり流れてゆく白い雲を目で追いながら、うっすらとが笑った。
back
2005/6/18 background ©ukihana