不覚だった。居場所を幕府に嗅ぎ付けられて、真選組の手から命辛々逃げてきたものの。人込みに紛れ込んだ所で力尽き、こうして夜の隅に座り込んだまま動けない。思考も意識も朦朧としてきて、自分もこれまでかと曖昧な覚悟を決めかけていた、その時。
「オーイにーちゃん、生きてるう?」
 酒の臭いと共に、自分とは正反対の陽気な声が降ってきた。どう間違っても天からのお迎えとは思えないが、死体をいじるような手付きで突付かれて流石に頭にきたので、重い瞼を上げて鋭い視線を覗かせる。左目は痛くて開かなかったから、右目だけ強引に開けた。視界には缶ビール片手にしゃがみ込んでこちらを伺う男が映り、そいつはほんのり紅い顔はそのままに、少し驚いたように目を丸くして、意外、とでも言うように
「おお、生きてた。でもあんたこのままじゃ死ぬよ?」
 分かりきった事だが人から言われて内心どきりとした。表情は崩さなかったつもりだが、どこかから伝わってしまったのだろうか?
「…生きたい?俺でよかったら手貸すけど」
 男は酔いの醒めたような口調と顔で右手を俺の鼻の先に伸ばし、取る取らないはあんたの自由、と続けた。
 このご時世に、こんな状態で道端に倒れてるなんて、攘夷派の浪士に決まってる。そうと分かっているにしろいないにしろ、こんな血塗れで薄気味悪い俺に手を差し伸べるなんて、こいつは極めてどうかしていると思った。

 自分は溺れたって藁を掴むほど馬鹿じゃないと自負している。俺はそんなに弱くない。そんなに惨めな男じゃない。仲間にだって滅多に頼らない俺が、見ず知らずの酔っ払った気違いに縋るなんて奇特な行動に出たのは、そいつの持ってる空気とか、話し方とか、目の色とか、そんなんが全部ひっくるめて、無責任な同情も、独り善がりの偽善も、全く匂わせなかったからだろうと思っている。
 とどのつまりは俺も馬鹿だったっつう事だが、掴んだ藁によっちゃあそれも悪くないらしい。



catch & keep



 西の空が暗くなってきた。風は熱と湿気を孕んで、重たそうな雲を運ぶ。仕事帰りに立ち寄ったコンビニの窓からその様子を見たは早めに買い物を済ませ、家路を急いだ。
「ふー…間に合った」
 家のドアの前に着いた頃には雲がゴロゴロと轟き始めていて、今にも大粒の雨が雲から零れ落ちそうだ。傘を持っていなかったため、ほっと胸を撫で下ろした。
「うわっ…あっつー」
 ドアを開けると溢れ出る、室内の篭った空気に顔をしかめる。湿気の多い中を走ってきて、ただでさえ汗ばんでいる肌にそれはとても不快だった。鍵を閉めて明かりをつけて、エアコンのスイッチへ急ぐ。この時期は帰ってくる度に、帰宅時間に合わせてエアコンのタイマーを付けておこうかと考えるが、自称エコロジストのは朝家を出る時になると、帰宅が遅れた場合を危惧して結局そのままにしてしまうのだった。
「あー涼しー…」
 動き出したエアコンの直ぐ下に立って、冷房を直接浴びる。冷たい風に汗が引いていくのが分かった。ぱたぱたと音がして窓の方を振り向くと、遂に降り出した雨が窓を濡らしている。雨粒はどんどん忙しなくなり、とうとうザァザァ音を立て始めた。急いで帰ってきてよかった、と、改めてほっとする。
 十分身体が冷めたところでエアコンから離れると、また直ぐにむっとした空気に包まれた。昼間の天気でじっくり暖められた部屋は中々冷えない。べたべたがぶり返すようで気持ちが悪いから今日は早めに風呂に入ることにして、浴槽にお湯を汲み始めた。お湯が溜まるまで待つ間にさっき買ったアイスを思い出して、慌てて冷蔵庫に仕舞う。
 ちょうどいい具合にお湯が張られたところで蛇口を捻って、さあ入ろう。出る頃には部屋も程よく冷えてるだろう、って時に
 ドン!ガダガダガダッ、ガチャガチャ… ガダガダ
 ドアが、それ壊れるだろうってくらいの音を立てる。叩いたりノブをいじったりやりたい放題だ。インターホンの存在を丸きり無視したこの振る舞いに、思い当たる人物は一人しかいない。タイミングの悪さに気分が萎えて、このまま放っておいてやろうかとも考えたが、本当にドアを壊しかねないので仕方なく、脱ぎかけの服を着直して(汗で湿ってて気持ち悪い)玄関に向かった。
 鍵とドアチェーンを外すとこちらが開けるより先にドアが引かれる。その向こうには予想通りの顔。雨でずぶ濡れだった。
「オイ、今はインターホンっつう便利なものがあんだからそれ使っ…」
 開口一番説教垂れ込んでやろうとしたら、完全無視して濡れたままずかずか上がり込む。濡れていくフローリングに文句を付けようとしたが、その行き先に慌てた。
「あ!ちょっ、待て!俺が先に入…!」
 抗議の声も虚しく、バタン、と浴室のドアが閉まる。
「…久しぶりに来たと思ったら挨拶もなしにそれかい」
 まあ土足で上がり込まなかっただけマシだと思いたい。溜息を吐いたはタオルを取り出して、玄関から浴室まで続いた水の足跡を拭く。それが終わると、箪笥から大きめのタオルと適当な寝巻きを引っ張り出した。

 少しずつ部屋も冷え始めた。風呂が空くまですることがなくなってしまった(なくはないが夕飯を作る気にはならない)は、テレビを見て時間を潰す。やけに長いなくそ、と3回目くらいの愚痴を吐きそうになった時、浴室のドアが開いた。湯気と一緒に素っ裸で出てきた高杉に、用意しておいたタオルと寝巻きを渡す。
「ほれ」
 また無言。もしかしたら受け取る時に聞こえないくらい小さく「ん」とか言ったのかもしれないが、所詮それだけだ。寝巻きを羽織ってタオルを被ると、さっきまでが座っていた所にどっかり腰掛けて、悠々とテレビを見始めた。はその優雅な後ろ姿を、じっとりした目線で見ながら
「…おいそこの浪人。こっちにも都合があんだよ。タダのホテルとでも思ってんのかコラ」
「違ぇよ。別荘だ」
「尚悪ぃよ!!」


 出会ったのはちょうど今の時期、雨は降っていなかったけど蒸し暑い夜、仕事仲間と飲んだ後だった。何となく飲み足りなくて、見かけた自販機でビールを一缶買って、家までの道をふらふら歩いていた時。むわっとした風に乗って鉄の臭いが鼻を突く。辿った先は血に塗れた一人の男で。元々怖いもの知らずな性格だが、酒のテンションもあってか、気付いたら絡んでいた。予想外に扇情的な目に誘われるように手を伸ばしたものの、病院に行くわけにもいかず、家までお持ち帰りとなったわけだ。

 それから、付かず離れずの関係が始まった。猫は家につくと言うし、気まぐれな態度がまるで猫みたいだ、と思っては、そんな可愛らしいものに例えてしまって後悔する。まあ、可愛くないわけじゃないんだけど…歳は自分より下だった。まあ上だの下だのこだわる年齢じゃないし、そんな差でもない。やってることに文句言うつもりもない。デカイ顔して居座ってる天人は俺だって気に食わないし、それに媚びてる役人もクソ喰らえだ。とは言えこんなに好き勝手やられちゃねえ…と口の中で呟きながら、タオルと自分の寝巻きを引き摺って浴室に入る、が。
「…オイィィ!!テメッ…泡風呂なんて顔に似合わねーことやってんじゃねーよ!!」
「ふん」
 もくもくの湯気の向こうに見えた浴槽は泡で埋め尽くされていた。一番風呂を取られた上に、湯船は入浴剤を使ってゆったり浸かる派のは憤慨する。だがわざわざお湯を汲み直すのも勿体ないと思った自称エコロジストは、已む無く我慢する事になった。
「こんなんで疲れが取れるかっつーのー…」
 取り敢えず泡風呂に入ってみたもののぬるぬるして気持ちが悪いため、シャワーで済ませることにした。シャンプーを洗い流しながらも、口から漏れる愚痴は止まらない。しかしこんな再会でも、元気でいることが確認できてほっとしてしまう自分には苦笑せざるを得ないだろう。


 浴室から出ると、冷えた空気が肌に気持ちいい。開けっ放しのカーテンに気付いて、ほんとに気が利かねえなあと思いながら窓際に歩く。シャッ、とカーテンを閉めて、相変わらずテレビに釘付けの客人を振り返る、と、その手元に目が留まる。
「ちょ……っ!何食ってんの?お前何食ってんの!?」
「見りゃ分かるだろうが。自分で買ってきたんだろ?」
 が風呂上りの日課にしているヨーグルトだった。最後の1つだったから、明日買ってこなきゃと思っていたのに。机の上には空になったアイスのカップも転がっている。
「そうだよ…俺が俺のために買ってきたんだよ…お前に食わせる為じゃねぇええ!!」
 遂に切れたがヨーグルト目掛けて飛び掛る。高杉は腕を伸ばしてそれを避けた。大の大人がソファの上で取っ組み合いになる。
「んだよヨーグルトの1つや2つで…ガキかお前は」
「テレビ見ながらスプーン咥えてる奴に言われたくねー!残りでいいから寄越せ!」
 一際伸ばしたの手が、ヨーグルトのビンを捕らえた。因みにビン詰めなのはのこだわりだ。もちろん洗ってリサイクルに出している。
「あああ〜もうこんな少しに…」
 しゅんとしてテーブルの横にぺたんと座り込むと、寝巻きの裾を高杉が引っ張る。
「オイ」
「なんだよ」
「座るならここに座れ」
 ぽん。と高杉の左手がソファの開いた所を叩いた。はぶすくれた顔で返す。
「なんで」
「座れ」
「……」
 最後の「で」に被る形で命令された。泊めてもらってる身でその太々しさは何なんだ、と思いながら仕方なく腰を上げる。でも大人しく隣に座るのはやっぱりしゃくに障るので、ソファの肘掛の部分に座ってやった。
「もっと近く」
「……はいはい…」
 今度は袖をぐいぐい引っ張られ、引き摺られるようにして隣に収まった。高杉は、自分の使っていたスプーンがそのまま使われているのを確認して、肩に頭を預ける。は何か言おうとしたが、流れてくるシャンプーの香りが自分と同じいい香りで気分が落ち着いてしまった。
 テレビに映るのは低俗なバラエティ番組で、高杉がこんな物を見るのがには意外だった。当の本人はまだ見てるのか寝てしまったのか分からないが、ひとまずチャンネルは変えずにおく。というかリモコンに手を伸ばして身体を動かしてしまうのが嫌だった。寝ていると思っていた高杉が、なあ、と呼ぶので生返事をしたら、
「一口」
「やだ。散々食っただろが」
 ツンとしたが最後のひと掬いを丁寧にかき集め、それを口に運ぶ途中で高杉の腕が伸びる。そのままの右手を掴んで引き寄せ、スプーンは高杉の口に収まった。
「あ…あああああ!」
 目も口も大きく開いて、が信じられない、という顔をする。肩の上の高杉を跳ね除けて、げしげしと子供の喧嘩のような蹴りを繰り出した。
「もういい加減にしろ!この!この!」
 高杉は何食わぬ顔でそれを掻き分けての肩に手をかけ、そのままぐいぐい押し倒す。
「ぎゃああ!!助けて!孕まされるー!!」
「馬鹿か。俺の子供なら喜んで孕め」
「馬鹿はお前だ!!ってゆうかほんとにやだ!ここじゃやだ!」
 ソファに沈みながら、が更に懸命に足をバタつかせた。前にソファの上でやったとき、全身が酷く痛くなって翌日の仕事を休んだ事がある。
「んじゃあっちならいいんだな?」
「………」
 近距離でその目と視線を絡められたら、頷くしかない。




 翌朝、まだ寝ている高杉を置いて仕事に出た。朝飯は食べる気にならなかった。昨夜寝る前に腹が減ったと言い出して、そう言えば晩飯食べてないことに気付いて適当に食べて。その後また布団に引き摺り込まれたようなそのまま寝たような、よく覚えていないが体はだるい。
 の仕事は建築現場の作業員。体力には自信があって始めた仕事だが、今日も気温は高くてこの体調では中々きつかった。仕事後の飲みにも誘われたが、それを理由に断る。…家が心配だったのもあるけれど。
 ぐったりしながら帰った家は明かりが点いていて。程よく冷えている部屋の温度は良かったが、中に入ると、ソファで居眠りこいている高杉と、付けっ放しのテレビ。
「……まだいたか…」
 周りにはDVDのケースやら雑誌やらお菓子の食べカスやらが散らかっていて更に脱力した。ベッドの下などを漁った形跡もあったが、残念ながらはAVは家に置かない派(レンタル派)だ。とりあえず片付けは後回しにして、今日こそ一番風呂に入ってやろうと風呂場の蛇口を捻り、寝巻きを出すついでに、起きない高杉に薄手の毛布を掛けてやった。
 ガララッ
「おわ!!何だよ!?」
 洗い場で体を洗っていると突然ドアが開いて、振り向くと全裸の高杉が立っていた。無言で浴室に入り、ざぶんと湯船に浸かる。先程入れた入浴剤で乳白色になっていたお湯がざばっと溢れた。呆れて怒る気も失せたが溜息を一つ。
「………だから何なんだよ」
「風呂くらい貸せよ」
「貸してやるけど今入ってくんなよ!」
「うるせ」
 こうした高杉の度の過ぎた自分勝手には、怒るを通り越して対処に困る。体を洗い終わったが交代しようと言っても退かないので、男二人が狭い浴槽で膝を突き合わせることになった。手を出してきたらどうしてやろうかと考えていたが、意外にも高杉は何もして来ない。温まったところでが先に出ると、それにくっついて出てくる。何がしたかったのやらには訳が分からなかった。
「やるよ」
「…いらね」
 仕事帰りにスーパーで買ってきたビン詰めヨーグルトを1つ差し出してやったのに、高杉は興味なさげにプイとテレビに向き直る。
「はあ!?何なのお前!」
「半分でいい」
「……俺は全部食べたいんだけど」
「知るか」
「あ〜そー…」
 結局が折れて、半ば強引に一口づつ食べた。空になったビンを洗ってから、が部屋の整理を始める。もちろん高杉はソファの上でテレビを見たまま手伝う気配はない。
「まあ期待してなかったけどね…」
 ぶつくさ言いながらが続ける。DVDケースは中身を確認してから棚に五十音順に並べて、雑誌は種類別に新しい順にラックに詰めて、散らかった食べカスはゴミ箱へ、余ったお菓子は1つにまとめて。踏ん反り返ってテレビを見ている高杉の周りを、せかせかとが動き回る。それでもやっぱり高杉は動かないわけだが。
 一頻り動いて、終わったか、とが部屋を見渡すと、高杉の足元にDVDケースが一つ落ちている。
「はいはいちょっと退いてね」
 高杉の足をどかしてケースを拾い上げ、中を見るとディスクが入っていない。プレーヤーを確認すると入れたままだった。プレーヤーはテレビの上に乗せてあるため、高杉に「見えねえ」とか文句言われつつ、ディスクを取り出してケースに仕舞って、棚に戻そうとしたとき…はっとしてパッケージを見直す。
「……もしかして、晋助」
「あぁ?」
 それは一時大流行したオカルト系映画で、後に続編やリメイク版が出たりしていたやつだ。はその1つ目を見てしっくり来なかったので他は見ていないのだが、今までの高杉の行動は…
「コレ見て怖くなっちゃった?」
 パッケージを高杉の方に向けながら問う。
「………何言ってんだよ」
「なにその間!図星!?ねえねえ!」
「るっせえ!馬鹿にすんなよ!?ンなわけねーだろうが!」
 迫るに高杉が声を上げる。その慌てように事を察したは内心にやりと笑って、
「ふ〜〜ん?じゃ俺今日はここで寝るから。晋助はあっちのベッドで寝ていいよ」
「………」
「じゃ、おやすみ〜……ィぃいいたたたた痛い痛い痛いごめんなさい!!!」
のくせに生意気言ってんじゃねーぞ」
 ソファに座って目を閉じるに、高杉の十字固めが炸裂。結局が謝る事になった。
「分かったらさっさと晩飯作れ」
「俺はお前の何なんだマジで…」
 とは言え自分も腹が減ってる手前、夕食作りは免れない。キッチンに向かうには、高杉の「恋人に決まってんだろうが」は届かなかったし、テレビの音量を上げた高杉には、の「素直になればもうちょっと可愛げあるのにねえ…」は聞こえなかった。




 翌朝、まだ日も昇らない時間帯。物音がしてが目を覚ますと、暗がりの中で半身起き上がっている高杉の背中が見えた。
「……もう行くのか?」
「ああ」
「服ならそこに置いてある」
「ん」
 高杉が降りてベッドが軋む。服に腕を通し帯を締めるとを振り返り、ベッドに片膝を付いて猫が擦り寄るように口付けた。は手にしていた包帯を、高杉の左目を覆うように丁寧に巻く。
 そのまま倒れ込みそうになるのを、お互い必死に我慢していた。

「じゃあな」
「送るってば」
 玄関に向かう背中を、着崩れた寝巻きを直しながらが追う。高杉が草履を履いて、ドアノブに手を掛けたとき、
「おい」
「あん?」
「いい物をやろう」
 振り向いた高杉の目の前に、が突きつけたのは合鍵だった。少し前に作ったもので、次の時に渡そうと思っていたのだ。だが高杉は欲しそうな表情など微塵も見せず、
「…いらねえ」
「は!?」
「俺が来る時ァいつも開けときやがれ」
 そう残して背を向けた高杉を送り出し、バタンとドアが閉まった。
「……だったら連絡の1つや2つ寄越してから来やがれ」
 まあ、いつだって歓迎なんだけど。口に出したって聞こえやしないけど、自分で聞くのも恥ずかしくってその言葉は飲み込んだ。
 カーテンの向こう側はまだ薄暗い。もう一眠りするか、と、は寝室に戻り、まだ温もりの残るベッドに飛び込んで大きく1つ深呼吸した。


thank you for 53835hits !


minaさんのリクエストで高杉夢でした。なんだかリクエスト内容を履き違えたような甘えん坊になってしまい申し訳ない…最後まで読んで下さってどうもありがとうございます。

back
2005/8/9  background ©m-style