またひとつ歳を取った。ちっともめでたくも嬉しくもない年齢だけに、特に浮かれることもなく。かといって感傷に浸るほどでもなく、周囲のちょっとした気遣いは純粋に嬉しかった。にはまだ会っていない。最近会ったのは連休前で、この期間も祝日なんて関係なく仕事だと零していた。それは真選組とて同じことで、外出の増える連休中は気の休まることがない。
「それじゃな〜、トシ」
「行ってきまーす」
「門限は守ってくだせぇよ」
その忙しい期間というのに、今日1日、自分は特別休業を頂いたのだ。もちろん断った。しかし自分の代役はもう決まっており他になにもすることがない状態で、休みというよりほとんど放り出された形だ。
「…ああ」
ぼやけた返事で仲間の背中を見送り、がらんとしてしまった屯所の門の前で土方は1人立ち尽くす。ありがた迷惑なんて失礼なことは言わないが、正直困惑する。行くところはひとつしかないとはいえ、この間だって自分から匂わすようなことはしなかったし、果たして覚えているのだろうか?確かめて目の当たりにするのが、情けなくもちょっと怖い。自分の記憶では日付はきちんと教えたはずだった。確か…そうだ。血液型や星座の話をしたときに言った。間違いない。
「……行くか」
どちらにせよ、このまま屯所の中で1日を終えるのはあまりにも虚しくて忍びない。顔を見るだけでも、と自分を奮い立たせ、土方は短くなった煙草を懐から取り出した携帯灰皿に突っ込み、ひとつ短く息を吐いてから唇を結び直し、大股で門をくぐった。
飼い猫のごちそう
「さんならいないぞ」
ノブに手を掛けたまま振り向いた先には、山になったファイルを抱えているが立っていた。その向こう側の壁には洒落た額に飾り立てられた大きな風景画が掛かっている。緑の多い景色で、大臣室から出ると一番に目に付くため土方の記憶の中ではこの場所と強く結びついていた。は相変わらずの無表情で、自分に発せられた言葉も親切か厭味かの区別も付かず、土方は短く、は?と聞き返す。
「今日は休暇を取っていらっしゃる」
ほとんど歩き出しながらは返し、言い終える頃にはすっかり背を向けていた。背中が遠ざかってから確認のためドアを開けるもやはり部屋は空っぽ、照明も落ちていて。机の上はいつもの散乱状態だったが、室内の空気の無機質さが主は随分前から留守にしていると告げていた。
回転の速い土方の頭の中には、瞬時にして甘い期待が湧き上がる。がしかしこれも瞬時にして、なんの連絡も兆候も手掛かりないことを思い返し、気分は高い山なりで急降下した。3連休の最終日くらいはさすがの彼も休みたかったのだろう。金色で荘厳なドアノブを裾で拭い、土方は来た道を戻った。
正面玄関を出て、さてどこへ行こう。まずこの先を左右どちらに折れようかと選択を迫られていたところ、なんだか急に背中がむず痒くなり後ろを振り向く。そこには変わらず庁舎がそびえ立っているだけだった。黒い制服(何も聞かされていなかったので今朝はいつも通り着替えてしまった)が光を吸収して熱くなっているせいだろうか。見上げれば連休に相応しい五月晴れで、空は絵の具のような色をしている。その青と庁舎の直線がコラージュのようなコントラストで重なり合い、土方は自然と目を細めた。眩しさをこらえてゆるゆると視線を上げ、最上階で目が留まる。
特別なにが見えたわけでもなかったが、ほぼ反射的に走り出していた。先ほど通ったばかりの重い西洋風のガラス戸を再度押し開け、上質な起毛カーペットを踏みしめて階段へ向かう。手摺りに片手を預けながら一段飛ばして駆け上がる。革靴がしなる。途中エレベーターの音が耳を掠めたが息を切らせて走り続け、最上階に辿り着く頃には脚の筋肉が乳酸で痺れきっていた。感覚が麻痺している脚を落ち着かせてから灰色のドアに手を掛ける。ここまで上ってきたのは初めてだったが、おそらく屋上へ繋がっているはずだ。ゴウン、と重厚な音が響いて光が漏れ溢れた。
「……なーんで来ちゃうかなー」
太陽に近付いた分強く感じる日差しに目を細めた土方の耳に呆れ声が飛び込んだ。白ける視界に目を凝らすと、ぽつぽつと点在する簡易なベンチのうちのひとつに人影がある。後ろ手をついて肩をすくめた横顔はフェンス越しの町並みを見下ろし、家屋の間から突き出た柱に沿い風を絡めてしなやかに泳ぐいくつもの鯉のぼりをぼんやりと眺めていた。
日当たりも眺めも良好なこの場所、昼休みには随分と賑わうのだろうが、この時間はあたり一面静まり返り、日光に温まり始めた春の空気だけで満ちている。
「いなくなったら仕事再開しようと思ってたのに」
また予定押しちまうよ、と小さく付け加え、は組んでいた足を解いてひょいと腰を上げる。脚のラインにぴたりと沿った黒いパンツのポケットに指を引っ掛けながら土方を振り向いた。日向でじっとしていても汗ばむほどの陽気の中、いつもの重苦しい上着はベンチの傍らに脱ぎ捨てられ、光を反射して輝くように白いワイシャツ1枚の格好だ。黒々とした服装しか見たことのない土方にとってはとても新鮮で、時折流れ込むぬるいそよ風に揺れる細い髪とか、ぱりっと尖ったシャツの襟とかが胸をくすぐった。
「…そりゃ悪かったな」
土方の革靴が無骨なコンクリートを踏みしめた。ところどころひび割れた隙間から雑草の細長い葉が顔を出している。一歩踏み出せばたちまち暖気に包まれ、絹糸のような日差しが降り注ぐ。ここまで散々駆けてきた体はじわりと熱く、熱は逃げ場を求めて皮膚の上でのた打ち回っている。土方は歩きながら重い長コートを脱ぎ、首にまとわり付くスカーフをするりと解いた。近くのベンチにそれを放り、片手でシャツの第2ボタンを外し終えたときにはもうは目の前。少し首を傾けて顔を覗き込めば、磁石が引かれ合うようにして唇が触れた。角度をずらしながら土方の両手が伸びるがしかし、それは空振りに終わり。
「さて、」
流れるように腕からすり抜け自分の後ろに回ったを、土方は黙って振り返る。
「どこ連れてってくれんの?」
期待に満ちた挑戦的な笑みと対峙した土方の心中は、プレッシャーを遥かに上回る気迫で満ちていた。誕生日とか、祝日とか、祝い事なんて抜きで。自分の手で、今日を素晴らしい1日にしてやろうじゃないかと。
確かな歩みでドアまで戻る途中、の片手をほとんど掻っ攫うようにして引っ掴む。綻んだような呆れ笑いを漏らしたは空を仰いだが、すぐに屋内に引っ張り込まれた。腕を引かれて階段を下る間も、瞼の裏では風に揺れる鮮やかな鯉のぼりが泳ぎ続けている。
●
2006/5/6 background ©ukihana