使いにくいユニットバスから出て狭いキッチンの横を通り部屋に戻ると、つい今しがた目を覚ました様子のが上半身を起こして、膝の上のシーツを握り締めていた。隣の窓から差し込む朝日に晒された素肌には赤い斑点が散らばっていて、ちょっとやりすぎたか、と思う。
 しかしこちらを見ようとしないので構わず、シャンプー切れてたぞ、とそれだけ告げて、風呂上りでじんじんと暖かい素肌に冷えたワイシャツの袖を通す。
「もう、会わない」
 上から3つめのボタンに手を掛けたとき、不意にの声が響き。寝起きにしてはやけに芯が通っていたので一度手を止めるがしかし、すぐに意識を手元に戻す。
「ふうん?」
「…ずるいもん、俺ばっかり…こんなのやだ」
「あ、そ」
 背広をブラッシングしながらちらと振り返ったは、ベッドの上で頭を抱えてうずくまっていた。この距離では分からないが、触れたら微かに震えているかもしれない。ネクタイに手を伸ばす。
「とりあえず冷蔵庫の中にあるモン食っていい?」



crater



 再びうずもれた布団の向こう側で、カチャカチャという食器の音とテレビのニュースの声が重なる。朝の音。布の隙間からコーヒーの香りも滑り込んできた。自分で入れたのだろう、手馴れたものだ。
「んじゃ行くわ。ごちそーさん」
 布団から少し出ていた俺の髪を、亮の左手がくしゃっと撫でる。食事に対してなのか、夜に対してなのか、はっきりしない態度でムカッときた。薬指の金具はわざとだろうか。
 シュル、と背広の生地が擦れ、ドアの閉まる無機質な音がワンルームに木霊する。革靴の足音が遠ざかってから、勢いよく布団を跳ね除けた。やり場の無い思いを溜息に混ぜて吐き出す。血液に鉛が混じったかのように重たい体を引き摺り起こして部屋着のトレーナーとジャージを引っ張り出し、部屋の真ん中に突っ立って頭を掻き掻き360度見渡してから、テーブルに置かれたままの食器を片付け始めた。
 冷蔵庫から出された夕べの残りのサラダとゆで卵、食べかけの食パン、インスタントコーヒー。サラダのブロッコリーはやはり丸々残っていた。シンクで水に浸し、水道の蛇口を思い切り捻ると跳ね返りが顔にかかって冷たいのですぐに閉める。
 キッチンのフローリングは冷たくて素足ではとても居られないので、つま先歩きでまたすぐベッドに戻る。腹は空いているようないないような、内蔵がまだ目覚めていない感覚で何もしたくない。膝を抱えて布団を被り、冷たい足の指を手で揉んで温める。今日の学校はどうしようか悩み始めた。


 、大学生。恋人は三上亮、既婚の社会人。
 同性とはいえいわゆる不倫関係なわけだが、離婚の話はしたことがない。あいつの事なので相手は恐らく若い美人妻だろうが、名前も容姿も年齢も知らない。どうせ離婚なんてするわけないんだし、そんな女みたいな我が侭言ってやるかと思っていた。そんな、すべて了承の上での関係だったのに、限界は突然やって来る。
 布団に包まったまま、ごろんと横になる。男2人で使うには少し狭い、簡素なシングルベッド。右端にずりずりと寄り、空いた左半分、伸ばす右腕は細く白くてなんとも脆い。
「(…何も掴めやしない)」
 付けっ放しだったテレビでは占いコーナーが始まった。この角度では画面が見づらいが、寝そべったまま自分の星座を目で追う。9位。
「(俺だってたまには1番になりたい)」
 授業の時間に合わせてセットしてあった携帯のアラームが鳴り出した。電源ボタンで止めて本日の時間割を一通り思い返してから、ふうと吐き出す長い溜息と共に意識が遠退く。




 駅から伸びる大通りを奥に曲がった一角、小さめで洒落た雰囲気のサッカーバーは、今夜行われている日本代表の国際Aマッチで盛り上がっていた。今回の試合の注目の的は何と言っても、代表初召集にして先発出場を果たした藤代誠二。天才フォワードとして鮮烈なデビューを飾ってから数年、国内リーグで着実に結果を積み上げた上での出場だったため、国民の期待は嫌が応にも高まっていた。
「来たッ、藤代!行けー!!―っあああ〜…!」
 友達のと一緒に試合を見に来ていたは、長年応援してきた藤代の晴れ舞台に気合が入っていた。藤代にチャンスボールが回ってくる度に声を上げるわけだが、中々ゴールネットは揺れない。つい先ほど通った、流し込めば1点もののスルーパスは、ポストを僅かに擦ってゴールラインを割った。
「けっ…駄目だなアイツ」
 もどかしさにやきもきしているの隣に、冷めた男が1人。ムッとして振り返ると2人連れ、仕事帰りのサラリーマンだろうか。
「あんなん俺でも決められるぜ」
「まあ…初代表だしな」
「プロ辞めた方がいいなこりゃ」
「…藤代をバカにすんじゃねえ!」
 酒の勢いもあってか、の制止も振り切り気付けばは突っかかっていた。胸倉を掴まれた男は目を丸くしたが、すぐに眉間に皺を寄せ、鋭い眼光でを睨み付ける。
「ンだテメェ…サッカー分かってんのか?」
「うっせ!お前こそ藤代のほんとの凄さを分かってねぇ!」
「…フン、クソガキがよく言うぜ」
「んだとぉ〜〜!?」
 男のワイシャツを握り締める手に力を込め、何か言い返してやろうとは口を大きく開いたがしかし次の瞬間、彼のイライラは周囲の大歓声に飲み込まれた。何処からか、ゴォール!と雄叫びが上がる。
「―え、決まった!?誰!?」
、藤代だぜ!」
「藤代!?」
 振り返ったテレビ画面では、新入りらしい大きめの背番号を付けた藤代が全身で喜びを爆発させていた。興奮する実況の声も完全に掻き消して、店内のボルテージが急上昇する。さっきまで胸倉掴んでいたはずの手はいつの間にか、隣の初対面の男と肩を組んでいた。


 試合終了後も興奮冷めやらぬ店内、試合は藤代のゴールが決勝点となり1−0で日本が勝利。彼はたちまち英雄となった。テレビに流れるリプレイをうっとり眺めていただったが、はっとして隣の男に詰め寄る。
「どーだ、見たか!藤代の凄さを!」
「ンなのもとから知ってるっつーの」
「…は?」
 悠々と煙草を吹かす男にがぽかんとしていると、その横にいた男が顔を覗かせる。細身の長身で、ツンツンした隣の男とは違い紳士的で穏やかそうな雰囲気だった。
「あの…藤代は俺らの後輩なんだ」
「―え…!武蔵森ですか!?」
「ああ、中学時代に一緒にプレーしたんだ。こいつが司令塔で、俺と藤代が2トップで」
「…てことは、キーパーの渋沢とかも…?」
 武蔵森、という単語に反応しても話に入る。彼が贔屓にしているのが他でもない渋沢で、今回の召集に漏れたことを心から残念がっていたのだ。
「うん、その通り」
「「スゲー!」」
「高校も一緒だったんだけど、俺らは受験もあって選手権は出なかったんだ」
「あ、そうですよね。俺ら選手権見てましたもん!」
「…言いすぎだぞ辰巳」
 2人の会話の間に挟まっていた男が不満そうに男を制す。手前の灰皿にまだ長さの残る煙草を押し付けた。
「別にいいじゃないか。ああ、俺は辰巳だ。こいつは三上」
です!こっちはサッカー友達の!」
「あ、サッカーもやるの?」
「はい、大学のサークルですけど」
「大学生か、じゃあフットサルとかも興味ない?」
「フットサルですか?」
「―辰巳!」
「俺らの昔馴染みの奴らとか仕事仲間とか集めて週末にやってるんだ。よかったら一緒にどうかなって」
 話を止めようとする男(三上)を抑えながら、君たちスポーツできそうだし、と辰巳がにこやかに続ける。は遠慮がちに頭を掻いたが、は嬉々として手を挙げた。
「いや、そんな自慢できるほどじゃないですけど…」
「俺らでよかったらぜひ!あ、こいつキーパーなんです」
「丁度いい!キーパー足りなくて困ってたんだ」
「え、マジすか」
「暇な奴らが適当に集まってやってる感じだから気楽に参加してよ。藤代とか渋沢もたまに顔出したりするし」
「「マジすか!!」」
「まあ、ものすごく暇なシーズンオフの時とかだけどな」
「オイ辰巳…いい加減に、」
「いいだろ。若い子と一緒にやれば刺激にもなるし」
「……チッ。好きにしろよ」
 痺れを切らした三上は財布から取り出した勘定をテーブルに叩き付けて、さっさと席を立った。残された辰巳は苦笑いで、
「…まあ、あんなのと一緒でよければ」
「あは…いや、こちらこそ」


 それから毎週土曜の夜には、は社会人に混じってフットサルをするようになった。三上とは最初からトゲトゲしい関係だったが、帰る方向が同じで電車の中で2人きりの時間が長かったため、じわじわと親密な方向へ近づいていくことになる。の家は三上の最寄り駅の5つ手前なのだが、そこで2人一緒に降りるようになってから急接近、と言った所だろうか。
 結婚してるのは最初から知っていた。
 初めて会ったときから三上は指輪をしていたし、2人で会うときも面倒がって外さない事が多い。も煩く言わない。フットサル仲間には誰にも、にも言っていないし、傍から見て気づくような関係ではなかった。




「……んー…」
 高く昇った日が窓を通り抜けて自分に直射し、眩しさに目が覚めた。ぴんと足を突っ張って寝たまま背伸び。全身のだるさは少しましになった、気がする。今からだと2コマ目からしか間に合わない上、確実に遅刻だが、
「…学校行くかー…」
 簡単にシャワーだけ浴びて、残りの食パンを胃に詰め込んで、鞄にはバインダーとペンケースを突っ込んで。学校までは歩いて10分、頑張って走れば恐らく5分、考え事をしながらでは15分くらい掛かるだろうか。
「(あーくそ…テンション上がんねえ)」
 俺の気持ちを基準にしたら、亮はその半分なわけで、対等な関係なんて望む方が間違ってる。俺にとって亮は恋人だけど、亮にとっての俺は所詮愛人なんだ。
 無意識にでも辿り着く行き慣れた道を通って学校に着くころには、もう授業は半分過ぎていた。後ろのドアからコソコソと教室に入り、見つけ出したの隣に座ると呆れた顔をされる。
「お前…出席あぶねえっつってただろうが」
「あれ、この授業だっけ?」
「いー加減にしろよ…カード通しといてやったからな」
「あー学生証!なんだ、お前に預けてたんだっけ」
「最っ悪」
「いや、ごめん、マジごめん、明日から真面目になるから俺」
「何回目だよ」
 は鼻で笑ったが、それから一週間、遅刻もせずに授業に出る俺にいささか感心したようだった。
 あれから亮は1度もうちに来ない。
 元々平日は不定期だったけど、最近は結構頻繁にやって来ていたのがぱったり途絶えた。まあ…会わないと言ったのは自分なのだけど。お陰で朝起きるのも辛くないし、サークルでも「最近キレてるね」とか褒められる。
 そして昨日には、から「こりゃ明日が楽しみだな」とか言われて土曜日の今日に至るわけだが、学校のない今日は、夕方の今まで部屋から出る気がしない。オレンジ色の西日が部屋を照らすが、照明がついていないので少し暗い。ベッドの上でゴロゴロしていたら枕の横の携帯が鳴った。フットサル仲間の笠井さんからだ。
「…もしもし」
『もしもし、?今日来ないの?数足りなくて困ってるんだけど』
「あー…今日は、ちょっと」
『なに、学校の課題とか?は来てるよ?お前最近調子いいらしいじゃん』
「いや…ほんと、すんません。次は必ず出るんで」
『そっか…残念。じゃあまた今度ね』
「はい、失礼します」
 通話を切った瞬間、ぶはーっと盛大に溜息をついて枕に顔を埋める。今日は絶対、行っちゃいけない。
 亮は、第4土曜以外は必ず来るから。
「…メシ作んのめんどくせ」
 朝からダラダラしていたがさすがに腹が減ったので、近くのコンビニまで晩飯を買いに行くことにする。行きつけのコンビニなんて服装はどうでもいい。財布片手に部屋着のままサンダル突っ掛けて外出。日が沈みかけて冷え始めた空気の中をぺたんぺたん走る。走れば1分とかからない距離だ。
 自動ドアをくぐった横、雑誌コーナーで立ち読みしている中に馴染みの顔。サークルの同級生だった。近くのマンションに住んでいるので、このコンビニではたまに会う。相手もかなりどうでもいい服装だ。
「おー、じゃん」
「おす。何してんの」
「ちょっと腹減ったから買出し、ついでに立ち読み」
「あー、俺も同じ」
 お互い暇人だなーと一頻り話し込む。試験が近いので、その辺の話も少し。まあお互いたいして勉強していないので、そちらはあまり盛り上がらなかったが。
「んじゃあまた月曜なー」
 スーパー袋片手に店を出たときにはすっかり暗くなっていた。薄い生地を通り抜ける外気が肌を刺すようだ。背中を丸めて腕を組みながらせっせと走る中、裸足でなんか来るんじゃなかったと少し後悔した。
「(…あれ?)」
 息を切らして辿り着いた自室の前、早く中に入ろうと急いで鍵を回してドアノブを引いても開かない。おかしいな、もしかして鍵閉め忘れた?と思いもう一度鍵穴に差し込もうとした、その瞬間、ドアが勝手にカチャンと鳴り、開いた扉の隙間からするっと伸びた手に腕を掴まれ、中に引きずり込まれた。
「いっ…て」
 引っ張られたと思ったらすぐに肩を掴まれて、玄関横の背の高い靴箱に押し付けられる。衝撃で手からスーパー袋が滑り落ち、ドシャッと潰れる音がした。照明が1つも付けられていない暗がりの中で、自分の肩をぎりっと掴んで離さない正面の男が顔を突き合わせる。こんなに暗いのに目の前の瞳はゆらゆら濡れた光を湛えて、背筋の凍る思いに声が震えた。
「……あ、きら…」
「学校の課題やってんじゃなかったのか?」
「―んだよ!会わないって言っ…やめ、やだっ」
 渡してあった合鍵で入ったのだろうか。憶測が頭の隅を掠めたが、振り払った腕はそのままの顎をぐいと掴む。舌に噛み付くかのように唇が合わさって、その勢いで頭が靴箱にぶつかり、ゴン、鈍いと衝撃が脳に響いた。
「ふ……んーっ、んあ、」
 スーツの袖をぎゅっと掴むが、引き剥がすだけの力が入らない。それどころか、片腕で腰をぐいと引き寄せられて全身が痺れてしまう始末。糸を引いて唇が離れる瞬間、もっと、とせがみそうになっている自分を自覚した。
 息を荒くして目を潤ませるの髪を、三上の手が2、3度、優しく撫でる。
「…愛してる」
 小さく息混じりだが、静まり返った部屋には十分な声だった。湧き上がる熱には堪らず目を伏せ、苦しそうに眉間に皺を寄せ唇を噛む。
「一週間はさすがにキツかった…」
 言いながら力が抜けていくように、三上はの肩に額を埋めた。首筋に触れる鼻がくすぐったくて、がひく、と身じろぎする。それを抑え込むように、抱き寄せる腕に力が篭った。
「なんで、来るんだよ………ばか」
「来て欲しかったくせに」
「そんなことない」
「あるね」
 三上が再び顔を合わせ、額を重ねる。片手がの喉に、苦しくない程度に絡み付いた。
「…お前も物好きだな」
 がそっと笑うように目を伏せる。突き放した分だけ、跳ね返りが大きいのを知っているんだ。亮も、俺も。


雁字がらめの鎖が心地いいってんじゃ仕様がない。


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2006/1/22  background ©創天