住宅地の間に作られた、マリノスユースの練習場。下校中の小中学生の賑やかな声に、選手の声とボールを蹴る音が重なって夕焼けに響く。



つなぎ目



 今日の片付け当番だったは仕事を終えシャワーを浴びて、ロッカールームに戻った。時間がかかるから先に帰っていいと伝えていたため、いつも一緒に帰るバス仲間は片付け中に一声掛けて帰っていった。手伝ってやると言ってくれた奴も何人かいたが、大丈夫と言って断った。しかしこんなに時間がかかったのは、片付け当番で一緒のはずの奴が今日に限って風邪で休んだからだ。
「あいつ…次は1人でやらせてやる。もしくは夕食を奢らせる」
 ぶつくさ言いながら、くたびれた手でロッカーを開けて制服を取り出す。最後の2人組がお疲れーと手を振って部屋を出て行くので、適当に返事をしてから着替えを始めた。
「…あ」
 ワイシャツに腕を通してボタンを1つ1つ留めていったら、最後の1つがポロっと取れてしまった。カツンカツンと音を立てて床に弾むのを追いかける。
「あー…」
 ボタンを片手にシャツを確認すると、際どい第2ボタンときた。これでは一番上まで閉めると息苦しいし、かといって第2まで開けてしまうとだらんとしてだらしがない。
「(…ま、帰るだけだし)」
 とりあえず第1まで留めてみたもののやっぱりきついので、仕方なく開けっ放しにする。っていうかネクタイ締めちゃえば分かんないよな、ということに気付いた。そのネクタイをごった返しのロッカーの中から探していると、シャワー室から須釜が出てきた。お疲れ、とお互い軽く挨拶をすると、
「あれ〜君、ボタン取れてますよ」
「あー、うん。さっき取れた」
 でもちゃんと拾ったから大丈夫、と取れたボタンを見せる。須釜はちょっと考えるような仕草をして、の手からボタンを取り上げて
「…ちょっと待って下さいね」
「ん?」
 もごもごカバンの中を探って取り出したのは、
「はい、縫ってあげます」
「え、ええ!?いいよ!」
 帰って親にやってもらうし!
 と、は男子中学生のカバンからミニ裁縫セットなるものが出てきたことに驚きながら精一杯遠慮する。
「いいから、来て下さい」
 そんなにお構いなしの須釜は近くの長椅子に座って、手招きでを呼ぶ。善意というのは純粋なほど断りにくいもので。
「……はい」
 座った須釜の前にが立つと、須釜の顔がちょうどの胸の前あたりにくる。須釜の手が着たままのシャツに掛けられて、が慌てた。
「い、いや、脱ぐから!」
「んーいいですよ、面倒でしょ?」
「いや、でも…!」
 このまま縫い付けられたらあんまりにも距離が…そんなの様子に須釜は気付かないのか、構わないのか
「刺したりしないから大丈夫ですよ〜、ちょっと邪魔になるから外しますね」
「え!?」
 と言ってボタンを外しながら須釜の手が胸を下る。はそれを目下に見ながら、
「……(なんかエロい)!」
 須釜の細くて長い指が1つ1つボタンを外していく様子は、なんだか官能的だった。爪きれいだなあ、とか思ってしまう。
「んー、糸はこれでいいですか?」
「あ、なんでも…」
「それじゃ」
「え、ええ!それはちょっと…!」
 須釜が取り出したのは赤い糸だった。
「何でもいいんでしょ?」
「いや、でもそれは…」
「僕が付けたって印です。いいですよね?」
「………は、い」
 こんな奇麗な笑顔で押されちゃ断れない。つくづく押しに弱い自分を自覚する。承諾の返事に須釜は満足そうな顔をして針を取り出した。手馴れた様子でするっと針に糸を通し、糸結びを作って、
「動かないで下さいね?」
「…はい」
 下から至近距離で笑いかけられて、思わずちょっと目を泳がせてしまった。


 動かないように言われたとはいえどうしたらいいのやら、目のやり場に困る。自分の胸元で淀みなく動き続ける両手に目線を下げると、裁縫に集中している須釜の顔が目に入った。いつも下から見上げてばかりだった顔を見下ろすのは、なんだか不思議な感覚で、こんなに色白かったんだとか、こんなに眉整ってたんだとか、こんなに目の色素薄かったんだとか。
 じっと手元を見つめている目は、針と糸に集中しているはずなのに、その目線の先に自分も捉えられていると思うと体が熱くなってくる。須釜とは直接触れてはいないのに、その目線が、赤外線みたいに胸を奥から熱しているようだった。鼓動も早くなって、脈に合わせてシャツが震えて、こんなに近くちゃ須釜にも伝わってしまうんじゃないだろうか。
「…須釜って器用なんだな」
 誤魔化そうと思って口を開いたけど、声も少し震えてしまったかもしれない。
「意外ですか?」
「んー、まあ確かに几帳面な感じはするけど」
 さすがに裁縫セット持ち歩くようには見えねーよ、と言うと、手は休めないままうっすら笑う。
「裁縫が趣味なんですよ」
「マジでか」
「マジです」
 笑って肯定したところで、はいできました、と言ってパチンと糸が切られて、須釜の手が離れる。
「サンキュ、助かったわ…多分」
「いいえ」
 きちっと縫われているボタンに感心しつつも、赤い糸が白に映えて複雑な気分になる。語尾に少しばかり嫌味を込めても、須釜は物ともしないでスルーして、達成感に溢れた顔をしていた。縫われたボタン(と糸)をまじまじと見ながら、まあネクタイで隠せばいいか…と策を練るに須釜が振り返って、
「…あ、そうだ」
「?」
「それ、僕のですから。卒業式とかにあげちゃだめですよ?」
「…は?」
 聞き返しても須釜は黙って笑みを深くするだけ。は引きつった笑顔でそれに答えながら、まさか…いやいやまさか、と頭の中で想像と否定を繰り返した。

 一緒に帰ろうと言うので須釜の着替えを待って、さあ帰ろうとなった時。ネクタイに隠された第2ボタンに気付いた須釜がのネクタイに手を掛けて、赤い糸を覗かせる。
「………」
「こうしなきゃ意味ないですよ。ね?」
「…はい」
 学校行く時は絶対隠して行こうと思いつつ、今は我慢する事にした。




 練習場からバス停までの道を歩きながら、ああそういえばとは今日の練習後の事を思い出す。
「明日からトレセンだな」
「そうですねえ」
 最後に全員集まったとき、須釜が1人前に出てみんなに一言、行ってきますの挨拶をした。みんなも須釜に負けないよう頑張る事、とのコーチの言葉を添えて。須釜が1人遅れて帰って来たのも、スタッフに叱咤激励されていたからだろう。
「うちも我が強いのばっかだけど…トレセンじゃ更に苦労するんじゃねーの、キャプテン?」
「…そうですね」
 そう言った須釜が少し影を作ったような笑い方をしていて、はしまった、と思った。どんな奴にだって悩みは付き物なのに。軽はずみな発言をしてしまったと反省する。ごめん、と言いそうになったが、それはもっと良くないと思って飲み込んだ。
 バス停の前で足を止める。はバスで帰るが、須釜はこの道をもっと行った先の駅から電車で帰る。遠くからバスが近付いてきた。
「でも、頑張ってきます」
 さっきの続きだとすぐに理解して、うん、とが答える。
「俺も、次は選んでもらえるように頑張る。選抜の選手としても、須釜と一緒にサッカーできるように」
「…そうですね、嬉しいです」
 見上げるといつもの笑顔で安心する。夕日に赤く染まって奇麗だった。
 走ってきたバスが2人の前で止まって、プシュウと鳴ってドアが開く。ステップに上ったところで須釜に呼ばれてが振り向くと、須釜はまだ笑っていて
「電話します」
「……うん」
 返事の最後にプシュウと音が重なって、バスのドアが閉まった。ちゃんと聞こえたかなあとは不安になったが、窓越しに須釜が手を振っているのを見て安心する。も手を振り返すと、ブロロロ…と唸るような音と一緒に遠ざかって視界から消えた。
 揺れる車内をゆっくり歩いて、窓際の空いた席に腰を下ろす。狭い座席には大きくて邪魔なエナメルバッグから携帯を取り出し、メモリの「須釜寿樹」に指定着信音を設定する。何の曲にしようか迷ったが、この間ダウンロードした洋楽のCMソングが須釜らしいと思ってそれにした。
 暗くなった携帯のディスプレイに映った第2ボタンに気付いてネクタイに手を掛けようとしたが、まあいいか…パコンと携帯を閉じて、手に握ったまま。窓の外を流れていくオレンジ色の街並みと、それに重なるようにして映った自分の顔を眺めていた。

thank you for 53235hits !!

焔さんのリクエストでした。ありがとうございました
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2005/7/25  background ©SPACE