3Z設定


「あいつのどこがそんなにイイわけ?」
 期末テスト前の放課後は人影も疎ら。照明は消され、明かりは差し込む西日だけ。ストーブの種火も切れてから既に結構な時間が経ち、教室内の空気は端から冷え始めていた。



Losers



「…先生には分からないです。分からなくていいです」
 脚の錆びた椅子に浅めに腰掛けたの前、机の上に乗り上げた化学教師・坂田が迫る。しなやかに伸びた両脚はの椅子の両端に掛けられて、白衣をまとった背中を屈めると髪が触れそうなほど顔が近付いた。それでもは腕と脚を組んでマフラーに顎を埋めたまま、少しも動じる気配はない。
「ふーん…」
 坂田の、ポケットに突っ込んでいた割には随分と冷えた左手がの額に当てられた。熱を測るような仕草にの眉間に皺が寄ったその次、ぐいと力で押されての顔が上向く。その隙に唇の距離が詰められた。
「―…!!」
 間髪入れず、自然と空いてしまった口の間から熱い舌が入り込みが目を丸くする。咄嗟に右手で肩を押したが思いの外強い坂田の力に適わず、両腕を力一杯突っ張ってようやく唇が離れた。背中を丸めて息を荒くするを目下に、後ろに手を付いた坂田は余裕綽々たる面持ちで僅かに口角を吊り上げ。
「どっちが上手い?」
「……なめんな」
 唇を拭う手の甲の向こう側でが低く呟いた。自分を拘束していた坂田の脚を乱暴に払い、椅子に掛かったコートと傍らに転がっていた鞄を引っ掴む。座っていた椅子がひっくり返って酷く喧しかったが構わなかった。ピシャン、とドアが閉められ、冷えた空気が一度震えた後、更なる静寂が訪れる。
 バタバタと廊下を走り階段を駆け下りるの足音が聞こえなくなってから、坂田はドアから目を離し、机からヒョイと飛び降りて仰向けになった椅子を元の位置に戻した。
「…なめんな、ね」
 椅子の背凭れに手を掛けたまま、濡れた上目遣いで睨み付けるの顔が浮かび上がる。心臓の左奥の方がどくどく鳴り出して、それを誤魔化すように、白衣を襟を正し教室を後にした。


 落ち葉を絡めた空っ風が窓に吹きつけるのを横目に見ながら、坂田が職員室までの廊下を歩く。履き潰した薄汚いサンダルがぺたん、ぺたんと鳴る音だけが響いていた。
 傍から見たら多分、仲のいい友達同士くらいにしか見えていないんだろう。
 陸上部に所属するはそれぞれ短・長距離の選手として、一年生ながら中々の成績を修めている。クラスは違うけれどもよく一緒にいるし、出身中学が同じで家もだいぶ近いのだそうだ。現在高校1年の2学期末とはいえ、中学時代の交友関係はまだ強く残っていたし、それだけ見たら2人は特に珍しくもない幼馴染であって。恋仲である事に気付いているのは自分を含めても、陸上部内の親しい、又は察しのいいごく一部の生徒だけだと思う。自分は3年の担任で1年生とは化学の繋がりだけだし、はっきりとは分からないけれども。
 けれど背が高く鼻筋の通った端正な顔立ちのを、女生徒が放っておくはずもなくて。この頃は特に、人肌恋しいこの時期にありがちな浮いた噂が彼を取り巻いている。(いい教師というのはちょっとした生徒の行動にも気を留めるものだ。決して不純な好奇心じゃない)でそれなりに整った顔付きをしているけれど、如何せん背が低くあどけなさも残り、同年代の少女から見たら少々頼りない感があった。(いや、だからそれだけ生徒の事を気に留めているわけで、決して不純な好奇心じゃない)
 は女を知らないわけではなかったようだし、2人の関係がいつからのものなのかは知らないけれど、それが秋風に吹かれて脆く崩れてしまいそうな感じを、坂田は何となく感じていたのだ。そのことに感付いているのかいないのか、はそれでもただしか目に入らないという様子で、彼のその健気とも言える態度が坂田には痛々しくもあり、面白くなくもあり、興味深くもあり、総合としてとても惹かれていた。それは時に、教師と、生徒という壁をも越えて。




「…先生。何ですか」
 帰りのホームルームが終わって暫くしてから教室に赴くと案の定、週番のが一人で残っていた。いきなりドアが開いたので彼は驚いて顔を上げたが、坂田が「ちょっとな」と曖昧に笑って見せると、そうですか、と返して書き途中の日誌に目を戻す。がその日誌を書き上げ、パタンと閉じるのを、坂田はドアの前でじっと待っていた。荷物を片付け始めたはその途中でちらっと目を向け、
「…俺に何か用ですか?」
さあ、次の日曜って暇?」
「日曜?………暇じゃない、です」
「そ。…?」
「………」
 特別彼等を意識していたわけではないけど、自分はそういう面で人より敏感なのだと思う。の直ぐ前まで距離を詰めて、片手を机について心持ち得意げに宣言した。
「俺は気付いてるよ」
「……そうですか。その通りです」
 案外あっさりと認める。一度止めた手もすぐに片付けを再開した。ジー、とカバンのファスナーが閉じられたところで、坂田が机に乗り上げて、椅子に足を掛けて、そうして聞くのだ。
「あいつのどこがそんなにイイわけ?」


 そっと指を添えた唇は北風でカサカサに乾いていたけれど、感覚はすぐにリアルに思い出された。職員室に戻ると隣の席の坂本が何やかんや話しかけてくるのでうざったそうに睨みつけたが、それに気付く様子もなく話し続け、仕方ないのではいはいと適当に相槌を打ってやりすごした。




「おはよ」
 翌朝、職員室に日誌を取りに来たは坂田を見向きもしなかった。仲が悪いわけじゃない。会えば挨拶くらい普通に交わしていた、昨日まで。今日もいつも通りと一緒に登校して、廊下で別れて来たんだろう。自分もいつも通りに挨拶しただけなのになあ、と、不思議なほど罪悪感の湧かない坂田は頭を掻く。は自分以外の教師にはいつも通りの挨拶を返している。


「あー…化学係は何してんのかねまったく」
 1限にさっそく化学の授業が入っている坂田は実験器具を第二化学室から第一へ移動させていた。ガラス器具をカチャカチャ言わせ、足元に注意しながら廊下を歩き階段に差し掛かる。その階段を下りきった、ちょうどそのとき。階段横の非常ドア越しに声が聞こえてきた。口にされた名前に咄嗟に息を呑み足を止め、耳を澄ませる。
「あーさあ、今度の日曜空いてる?」
「日曜?……なんで」
「俺彼女と遊ぶ約束してたんだけど、も一緒に来るみたいで。ほら、あいつ等2人仲いいだろ?」
 と言えば今現在に関する噂の渦中にいる生徒だ。まあ一般的に言う美人だし、育ちのよさが滲み出てる感じの憎めない子。あの2人ならチョーお似合いだよねーって、この間クラスの女子が騒いでいた。
「…ふーん。それで?」
「オイオイ分かってんだろ?お前も来れば丸く収まるんだよ」
「………分かった。空けとく」
「そーこなくちゃ」
 とそのクラスメイトらしい男は、日時やら場所やらの話を続けながら教室へ帰って行った。坂田はしばし呆然とその背中を目で追っていたが、授業開始のチャイムで我に返る。2人はもうとっくに見えなくなっていて、慌てて化学室へ向かった。


 本校舎とは少し離れたところに位置する学食は、生徒にも優しい価格設定で昼時はかなり賑わう。清潔感溢れる白い壁と高い天井は、いかしも上流私立高校といった感じ。その一角でが2人、向かい合っていつも通りの昼食をとっていた。
「……、あのさ」
「んー?…あ、日曜のこと?俺さーこのアクション映画がいいな!CM見たことあるだろ?新しいからちょっと混んでそうだけど…「あー、そのことなんだけど」
 コンビニかどこかで配られているのを貰ってきたのだろうか、
制服の胸ポケットから取り出した映画の割引券を片手に盛り上がるを、具合が悪そうにが制する。
「日曜はちょっと…その、予定入っちまって」
「……そっ、か。…うん、分かった!また今度な」
「―ああ、ごめん」
 目を逸らして歯切れの悪い口ぶりのは一度目を伏せたが、すぐに顔を上げて明るく声を張る。それに合わせて笑ったの顔には若干の影が残り、それでもは気付かない素振りで食事を再開した。


 今日もまたは放課後の教室に一人残って日誌を書いている。一緒に当番のはずの女子は部活のないこの期間に遊び回りたいらしく(勉強する気はないのか)昼間の仕事は私がやるから、と、放課後の仕事はに押し付けられたのだった。
「(でもま、今日で終わりだし)」
 適当にそれっぽい言葉で空欄を埋め、さて終わったというところでガラガラとドアが開く。は目を向けたが、すぐに逸らして無視を決め込んだ。立っているのは坂田。
「明後日」
 の手がピク、と小さく反応する。今日は金曜だから、明後日といったら日曜のことだ。
「空いてるだろ?午前10時に東口前。遅れたら今回のテスト0点ね」
「なっ…、はあ!?なに勝手に決めてん…」
 一方的に畳み掛ける坂田には堪らず顔を上げたが、坂田は聞く耳持たずドアが閉められる。は何か考える様子で視線を泳がせ、苦しそうに唇を噛んだ。




 自分もその一部とは言え、日曜の街の賑わいには少々閉口する。入り乱れる雑踏の中に一人、だるそうな佇まいの男を見つけ、は人の波を掻き分けながら歩み寄った。教師とプライベートってどうなんだと、勿論何度も思ったが、いつもの見慣れた薄汚れた白衣にサンダルにダサい眼鏡姿でないと、それなりに普通の男に見える。自分と並んだらもしかして兄弟にでも見えるかもしれない。正面に向かい合って足を止めると、ずっと目を伏せていた男がするりと顔を上げ、
「遅いよ」
「丁度です」
「1分過ぎてる」
「俺の時計は今10時です」
 ムッとして張り合うを、坂田は改めて上から下まで見渡した。いつもの制服と違う、私服姿が新鮮で。本来ならと遊びに行くのに着る予定だったんだろうか、とか考えると、自然と胸が高揚するのを感じた。
「まあいいや。行こっか」
 凭れ掛かっていた壁から離れて坂田が歩き出すと、もその少し後を付いて歩く。後ろを一瞥してそれを確認した坂田は自分の表情が崩れるのを感じた。横断歩道の赤信号で止まると、自分より頭ひとつほど小さいが隣に並ぶ。
「そーいや何も決めてないんだけど。行きたいとこある?」
 車の音と周りの喧騒でちゃんと聞こえたかいささか不安だったが、は黙って俯いたまま、ジーンズのポケットからくしゃくしゃに折られた映画の割引券を取り出し坂田に差し出した。
「ふーん。どれがいいの?」
 その割引券は複数の映画に共通だったのだ。
「何か言いなって。俺はこのアクション映画かなー」
 はっとしてが顔を上げると、ニヤッと笑った坂田とばっちり目が合う。咄嗟に顔を背けても耳が少し赤くて、坂田はますます深く笑い、行くよ、と青信号を知らせた。


「…どーしよっか」
 チケット販売の窓口でまたしてもだんまり。お目当ての映画はの懸念通り、話題の新作という事で夕方まですべて売り切れだった。(立ち見も売り切れらしいが、それは坂田が断固拒否だったのであまり関係ない)
「こっちなら残ってるってさ」
「…どーでもいいです」
 こっち、というのは少し前の典型的な感動系ラブロマンス映画。男2人でんなもん鑑賞する奴があるか、まあ俺の言う事じゃないけど、と、テンションの下がった(というか元々高くない)は坂田を置いて窓口を離れた。ずらりと並ぶ列の横で待っていると、
「はい」
「……は?……ばっ、コレ見るの!?」
「いーじゃん別に。他にすることないし」
「…離れて座りますから」
「指定席だけど?」
「…………」
「もう始まるよ」
 は手渡されたチケットをもう一度確認してから軽く溜息をつき、先を行く坂田の後に続いた。


 重量感のある扉を開けて入る室内は薄ぼんやりしたオレンジ色の照明に包まれ、音を吸い込む厚い壁に耳が圧迫されるような感じがする。
「いてっ」
 チケットに書かれた座席番号を探す坂田の背中が突然止まり、それにくっ付いていたは頭を打った。完全に固まってしまった様子の坂田を訝しんで声を掛けると、あの坂田が不自然なほど慌てる。
「?……ちょっと。何…」
「…あ、いや、何でも……」
「………!」
 坂田は背中で隠そうとしたが、からも見えた。薄明かりの中だけど、見間違うはずもない。
「ちょっ…待て、
 次の瞬間には踵を返して走り出していた。力任せに扉を押し開けて部屋から出る。坂田はら4人がこちらに気付いていないのを確認すると、急いで後を追った。


「……
 散々探し回った挙句、映画館の外、道路脇の街灯の柱の傍らにうずくまっているのを見つける。すっかり息が上がり、外気は熱くなった体を突き刺すよう。吐き出す息が白い。
「…俺、なんとなく分かって、た」
「うん」
 隣に並んでしゃがむと、膝を抱えて組んだ腕の隙間から鼻声が漏れる。時折、ず、と鼻を啜って不規則に震える頭を、坂田はそっと撫でた。
「……くやしい」
「うん」
「…かなしい」
「うん」
 彼がこうして苦しむのも、それだけあいつを好きだからであって。自分なら彼をこんな風に悲しませやしないのに、なんであいつなんだろう。
「好きって苦しい、ですね」
「…うん」
 俺も同じ気持ちだよ、と強く思ったが到底届かなかった。こんな痛みでしか、好き、を実感できない俺らはなんて惨め。いっそ嫌いになれたら楽なのに?
「…
 ほとんど声になっていなくて、唇の動きから読み取った言葉は坂田の胸の真ん中をガリリと引っ掻いた。手を背中に回して、ジャケット越しの彼の鼓動を感じながら、、と呼んでみてもその声は彼を通り抜け、べしゃっ、と冷えたアスファルトに墜落して潰れる。


「(…今更気付いた)」
 誰かが勝てば誰かが負ける、そんな当たり前のこと。
「………」

アイムルーザー
世界は敗者で満ちている。



つづき書きました

back
2005/11/17  background ©
君に、