ルーザーズのつづき。3Z設定
期末テストを終えてすぐの土曜日。 食事時とは少しずれたこの時間帯でも駅に近いリーズナブルなファミリーレストランは若者や家族連れで賑わう。まわりに学校が複数あるため学生も多く、緊張感から開放された面々は各々の努力の程度に関わらず、 どこか安堵の表情を滲ませて戻ってきた日常を噛みしめている。



Losers #2



 ぞぞぞ、と空になったプラスチックのグラスの中で白いストローが鳴る。部活の午前練習を終えてジャージ姿のまま昼食を済ませてから数時間、もう何杯目か分からない。別に喉が乾いているわけでもないが、一向に下げに来ない食べ終えたグラタン皿の淵の焦げ付きをスプーンでこそげ取るのも飽きたし。かといって携帯を取り出すのも何か違う気がして、沈黙をやり過ごすためにひたすら飲んでしまうので、腹は一向に軽くならない。先の期末テストはもちろん散々だった。
「注いでくる」
 一言断って席を立つ。一応にも、何かいる?と声を掛けたが、短い遠慮の返事が返ってきた。目も合わない。
 ドリンクバーのカウンターの前では、他校の制服を着た女子高生がきゃっきゃと騒いでいた。どれにするとか、これが美味しかったとかイマイチとか、ついにはこの場と関係のないうわさ話などしているが、急ぐ用でもないので一歩後ろに控えて待つ。やっと順番が回ってきたら悩むのも面倒なのでさっきと同じアイスの紅茶を注ぎ、ガムシロップを1つ掴んで席に戻る。
、あのさ」
 元の位置に腰かけ、シロップを紅茶に注いだところでが切り出した。少し俯いた顔はそのまま、長いことテーブルの上で組んでいた腕を解いて、口元で手を組む、その硬い動きから緊張が伝わってくる。もしかしたら指先なんか震えてるのかもしれないが、凝視することはできなかった。
「なに?」
 空になった容器をもてあそびながらは続きを待ったが、は焦点をぼやかしたまま黙りこくるばかり。こちらもどう動いたものかとソファに置いた左手を強ばらせると、安っぽいビニールのような合皮の感覚に指がすべった。透明なシロップが琥珀色の液体の中でもやのように滲みながら音もなく下降していく。それが底まで沈んで、うっすらと二層に分かれ始めてもなお、はなにも発しない。
 耐えかねて視線を上げると、4人席のテーブルに少しずれて向かい合っているの、ツンととがって少し下を向いている鼻先や、長さはないが密度の濃いまつ毛、健康的に日焼けした肌、長く骨ばった指の先の丸く切りそろえられた白い爪なんかがよく見えた。
 初めてのキスではあの鼻に邪魔されてうまく唇が合わなかったし、朝の登校時には寝坊して顔も洗わず出てきた彼の目元に抜け落ちているまつ毛を拭ってやったものだ。彼の爪は指に比例して大きく、ゆるく湾曲したつるつるの表面が気持ちよくて、手を繋いだ時はいつも親指の爪を撫でていた。

ああ、好きだったな

 手元のプラスチック容器を握りつぶし空いた皿に放ると、コツンという音にが顔を上げた。こんなにはっきりと向かい合ったのは随分久しぶりのような気がしてしまう。やっぱりかっこいいよな、よく知ってるよ。
「別れよ!」
 後ろには小さな子供を連れた4人家族が座っていたので自分で言っておいて声量にちょっと怯んだが、無邪気な笑い声が聞こえてきて一旦胸をなでおろす。はそれどころではなく、瞬きすらままならない様子だった。無自覚は言い訳にはならないよなあと思いつつ、今度は少し抑えた声でゆっくりと告げる。
「別れよう」

 感覚がなくなり始めている顔の表面に冷たい風が吹きつけて、たまらずウインドブレーカーの立てた襟の中のネックウォーマーに鼻までうずめた。前かがみに大股の早歩きで駅までの道を歩いてきたが、赤信号に足止めされると途端に時間が引き戻される。
「…そうだな」
 たっぷりと間を置いた末に、の口をついて出たのはその短い一言だった。彼のことだから、限られた時間の中で精一杯考えたんだろうと思う。ごめん、という言葉を必死で飲み込んでいるのが痛いほどよく分かった。気がよくて、「ありがとう」と「ごめんなさい」をすぐ言える奴だったから。そういうところが好きだったから。他のみんなもそうなのかな。
「じゃ、わりーけど今日は奢ってね。こないだの映画の分ってことで」
 それ以上は耐えられなくなって、足早に店を出てきてしまった。上着を羽織る余裕もなかったので、外に出てから歩きながら、ショルダーバッグを左右の肩に交互に掛け直していそいそと袖を通した。

「ばっかじゃねーの」
 行き交うまばらな車を横目に見ながら、やり場のないひと言をそのまま呟いてみたら想像をはるかに超えて虚しく即座に後悔した。信号が青に変わり、咄嗟に走り出しそうになるのを堪えて再び大股で歩き出す。もう一度信号に止められたら、今度は本当に崩れ落ちてしまうんじゃないかと思えて、半ば祈るような気持ちで駅を目指した。幸い最後の青信号が点滅し始めたところに滑り込んで事なきを得る。

 かじかんで思い通りに動かない指でバッグの中の定期入れを探り当て、改札を通る。自宅方面行きの次の電車が来るまであと20分ほどだ。ところどころ色の禿げた階段をのぼった上にあるホームは屋根こそあるもののほとんど屋外で、まばらな人影はみな小さく肩を縮こまらせて寒風に耐えている。ホーム半ばにはガラス張りの待合室もあるがわざわざ移動する気にもなれず、一番近くにある年季の入った水色の椅子に腰を下ろした。丸みを帯びた座面は尻をすっぽり包み込んでくれるが、ジャージの生地越しにもはっきり分かるほどキンキンに冷え切っていた。

 先週の日曜日はあれから、映画館に戻るわけにもいかず(上映時間も過ぎていたが、それはあまり問題ではない)、とにかく寒いからと言って近くのコーヒーチェーン店に入った。通りに面した大きなガラスに沿って並んだスツールに席をとり、坂田はなんだかよく分からないトッピングのたくさん乗った、なんとなく若者が好きそうな看板メニューとブレンドを注文してきたのだが、「こういうの好きなのは女子だけです」と突っ返した。(結局のところ坂田の甘味欲を満たすに繋がったので良しということになる。)その後予定が決まっていたわけではなく、行きたいところや興味のあるものを聞かれてもはブレンドをすすりながら「特にない」の一点張りだったので、坂田はその日1日、行きつけの文房具店や眼鏡屋や古本屋なんかに連れ回したのだった。
「あ、ごめん。ちょっと待ってて」
 埃っぽい古本屋に入り、坂田は気になる本でも見つけたのか、馴染みらしい店主と奥に入っていってしまった。古本屋といってもリサイクルショップのようなものではなくいわゆる古書店で、普段の学校でとことん不真面目そうな坂田がこういった古書の類を読んでいるのはとても意外だった。とはいえは漫画以外の本に毛ほども興味がなく、うず高く積まれた恐らく希少なのであろう本の山をなんとなく見上げながら時間を持て余す。
「(ん…?あれ、)」
 そこで携帯がないことに気が付いた。いつも入れている上着のポケットにも、ズボンの尻ポケットにもなく、まずいどこかで落としたかと慌ててまわりを見まわしていたところに坂田が戻ってくる。
「お待たせ〜。何してんの?」
「え、あ、いや、別に」
「あ、携帯?はいこれ」
「…なんであんたが持ってんの?」
「俺の番号登録しといたから」
「いらないです」
「ま〜そう言わずにね、はいどうぞ。あ、暗証番号はね、誕生日とか分かりやすいのにしちゃダメよ」
「……」

 ふと思い出して携帯の電話帳を開く。あれ以来きちんと確認していなかったのだが、さ行で検索したら『坂田先生』というふざけた名前で登録されていた。番号はきちんとそれらしい11桁が入っていて、じっと睨みつけているとディスプレイの照明が暗転し、情けない自分の顔が映る。電源ボタンを押して、ロック解除して、また暗転を繰り返す。
 どれくらいそうしていたのか、次の列車の到着予定を告げるアナウンスで我に返った。もうすぐ電車が来る。それに乗らなければならないと決められているわけでもないのに妙な焦りが背中を押して、通話ボタンを押してしまった。画面が『発信中』に切り替わり、ププププ…と電波を探している間も指が動かず、呼び出し音が鳴りだしたらいよいよ引っ込みがつかない。出なくていい、出なくていいと心の中で唱えながら、それでも本心が分からなくなりそうだった。5、6回目でコールが途切れる。向こうの周囲は静かで、自分の聴覚がどれだけ研ぎ澄まされていたのか、電話の向こう側の男が、すうっと息を吸う音さえも聞こえた気がした。

「おはよう」
 もう夕方だろ。
 とっさに浮かんだ言葉はしかし、喉の奥につかえて出てこなかった。それ以外にも、なにか、気の利いた言葉、沢山あるはずなのに。一緒に思考回路も詰まってしまったようで、それでも呼吸ばかりが荒くなる。途端、みぞおちの内側が跳ね上がって、咄嗟に体を折り曲げて半開きになっていた口をきゅっと結んだが、「ぐっ」とくぐもった音が漏れた。反動で通話を切ろうとして、それでもきっとまた掛け直してしまうと思ってやめる。
「…おれ、最後まで期待してた」
 膝の上に抱えたエナメルバッグを押しつぶして、真っ暗な視界の中でようやく思い至る。
 に「そうだな」と返されて、はショックを受けていた。自分から切り出しておいて、妙に吹っ切れた様子を匂わせておいて、彼が「なに言ってんだよ」といっそ怒ってでもくれるんじゃないかということを、あの時でもなお、諦めきれていなかった。我ながらなんとも哀れで、とんでもなく惨めで、今度こそ崩れ落ちて跡形もなく消えてしまいたかった。
「ねえ、。どこにいる?今」
「…言わない」
 そのタイミングで電車到着のアナウンスが流れる。坂田が「そう」と言って、音もなく笑ったのが分かった。
「俺はね、学校にいるよ。採点終わらなくってさあ、俺だけ休日出勤」
 まいったよねえ、とぼやいた後半はがホームに滑り込む電車の音でかき消されたが、個人情報だから持ち出せないし、というようなことを言っていたのだと思う。ピンポンと鳴って列車のドアが開く。
「じゃあ、まだ残ってるから切るよ。気を付けて帰りな」

 校門に面したドアのサッシに手を掛ける。(昇降口が閉められていたのでこちらに回ってみたのだ。部活動中の緊急連絡用に、職員室と保健室は鍵を開けておくことになっている。)カラカラと乾いた音を立てて歪んだ枠を滑らせると、ぬるい空気がむわりと押し寄せる。坂田は入ったドアから右手2列目の一番奥の席に背を向けて座っていた。彼が言った通りほかに教師の姿はないが、照明がすべて点けられているうえ職員室全体が温かいので、おそらく少し前まで他にも出勤していた教員がいたのだろう。
 ―と、勢いあまって学校まで戻ってきたものの、いざ坂田の背中を見たら急に冷静になってしまった。サッシのアルミに指先から熱が奪われていく。校庭で午後練習をしている野球部の声がかすかに聞こえた。
「さみーから閉めてー」
 振り向きもせずに言うので少しムッとしたが、自分も寒かったのでスニーカーを脱いで中に入った。そのへんに脱ぎ散らかされていた茶色のスリッパを拝借する。部屋全体を一度見回してから、これ以上受け身でいるのもどうかと思い、ツルツルして歩きにくいスリッパで近づいてみる。坂田は本当にテストの採点をしていた。解答用紙の形式が自分が受けたものと違うので先輩の答案だと分かったが、さすがに覗いてしまうのは憚られて少し手前で足を止める。授業以外でまともに仕事をしているところを見るのは初めてかもしれない。
「することないなら肩でも揉んでくれない?」
 やはりこちらに見向きもしないが、このまま突っ立っているのも情けないし、ましてやここまで来て帰るわけにもいかなかったので、無言のまま後ろに回り白衣をまとった肩にそろりと手を乗せた。肩もみなんて子供のころ両親にして以来なのでいまいち勝手がわからないが、凝って固くなっていそうなところを親指で押してみる。
「あーいいね…あ、ちょっと右、いやそっちじゃなくて逆」
 どっちだよ。という言葉は飲み込んで、坂田が「そこそこ」という箇所を手探りで見つけたので、できるだけ単調に、機械になった気持ちでぐりぐりと親指をねじ込む。
 坂田は「ここ出すつったろうが」「どういう覚え方してんだよ」などぶつくさこぼしながら、解答用紙に丸やチェックを付けていく。マーカーペンの滑る音と紙の擦れる音が淡々と続き、指先はじんわり温まってきて、俯いていたら鼻水が垂れそうになったので慌てて顔を上向けた。汚れた天井と蛍光灯を映す視界が滲むが、瞬きを繰り返して引っ込める。

「あ〜〜終わった〜〜〜」
 余計なことは考えないよう手元に集中していたら、坂田が突然両腕を上げて背伸びをするので揉んでいた手を引っ込める。机の上にあった紙束が片付いているので、どうやら採点がすべて終わったようだった。教師も結構大変なんだな、と少しばかり感心していると、古びた回転式の椅子をキキッと回して坂田が振り向いた。すぐ後ろに立っていたので膝がぶつかってちょっとよろける。
「がんばったから誉めて」
「…休日出勤、お疲れ様です」
 きょう初めて目が合った。うっすら汚れた眼鏡のレンズに蛍光灯が反射するその向こうで、あんまり優しい目をしているので面食らって、軽く頭を下げたら引っ込めていた鼻水がまた落ちてきた。
「うん。もがんばったな〜」
 伸ばしてきた両腕で、風に吹かれたままぼさぼさでパサパサの髪ごと撫でまわされたら、今度こそ止められなかった。手で顔を覆うよりもはやく頭を抱え込まれて、涙も鼻水も流れた先から白衣の肩に染みていく。促されるまま坂田の膝の上に乗り上げて、思っていたよりたくましい首に力いっぱいしがみ付いた。声を上げて、しゃくりあげてまで泣くのなんて、物心ついてから初めてなんじゃないかと思う。全力で挑んだ中学最後の陸上大会で敗退した時も、人目に付かないようにひっそり涙を流したものだ。頭の隅でそんなことを冷静に考えつつも、後頭部や背中をあやすように撫でられると嗚咽が一向に止まらない。
 ファミレスでたっぷり溜め込んだ水分をほとんど出し切ったくらいで徐々に落ち着いて、べしょべしょになってしまった顔と坂田の白衣がようやく恥ずかしくなってくる。まだ整わない呼吸をひくひく言わせながら、後ろにしょっていたショルダーバッグからきれいめのタオルを取り出した。
「お前、泣き顔もかわいいよね」
「…セクハラ」
「心外だなあ、めちゃくちゃ紳士だと思うんだけど。この対応」
「そうですね、ありがとうございます」
 わりと本心だったのだが、言い方と言い回しのせいであまり伝わらなかったかもしれない。どちらにせよ坂田はあまり気に留めない様子で、
「いやあ、実際に据え膳目の前にすると手が出ないもんだね。腐っても教師だわ」
「先生は立派な教師だと思いますよ」
「…それはどうも」
「本当ですよ」
 目まわりのじんじんとした熱はしばらく引かなそうで、それでもどんな顔をしているのかが気になって、ひょいと頭をもたげて覗き込むと至近距離に煮え切らない顔が見えて反射的に吹き出した。額がぶつかって、まぶたに触れたメガネのフレームがひやりと気持ちいい。
「お前なあ〜」
 紙という紙に水分を散々持っていかれたカサカサの指が、まだしっとりしている頬や目尻に吸い付いて素直に心地いいと思った。
 さっきから次々と押し寄せる感情が完全にキャパシティを超えていて、一瞬ごとに感じたことを受け止めるだけで精いっぱいだ。だから、
「覚悟しとけよ」
 そう言われて、考えるよりずいぶん早く、不思議なほど自然に笑っていた。


 

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2019/01/04  background ©
君に、