いつもは静まり返っているはずの監獄の周りに、たくさんの人の気配が蠢き出した。自分の入っている独房の近くにも警備が配置され、は鉄格子の向こう、重装備の男をそうっと見上げる。男はこちらには見向きもせず、辺りには物々しい空気が漂っていた。
「(通謀の噂を信じてるのか…?)」
 しかし残念ながら自分を助けに来てくれる志士などいない。無駄に厚くなってゆく警備が可笑しくて、は一人で笑い出しそうだった。
「ここに警備は必要ない」
 監獄でニヤニヤとしていてはただの狂人だと思い笑いを噛み殺していたの耳に冷たい声が響く。主は振り向くまでもなくすぐに分かった。
「鍵が厳重にしてあるだけで十分だ。どうせこいつは声が出ん」
 短い返事を残して、張り付いていた男どもが散る。なるほど、全部この男の考えってわけだ…だが生憎、あんたの策にゃ誰にもはまりやしないよ。そう含んで返した自分の顔は、恐らく不気味に不敵に引き攣っていたに違いない。
「……!…下衆めが」
 それをがどう取ったかは知らないが、不快の極みだというような顔で一言吐き出し踵を返した。



ちなし



「桂、話がある」
 見張り番として一人、暗闇でパチパチと音を立てて燃える焚き木を見つめていた桂に、背後から高杉が声を掛ける。炎を背に振り向いた桂の表情は高杉には見えなかったが、話の内容は大方気付かれているだろうと思っていた。
 隣に腰を下ろし、片手に持ってきた枯れ枝を半分に折り、その片方を火の中に放り込むとすぐに朱色に呑まれて消える。横からの視線を感じつつその様子を見送ると高杉は、言い出しの言葉を探るように唇を動かしてから先日のとのことについての一部始終を話した。
 振り返るとまた憤りがぶり返しそうで、何度か言葉に詰まる。ずっと炎の中心を見ていたため、話し終えて目を閉じたら闇の上に緑色がチカチカした。目が慣れると雲の間で瞬く星も、月明かりに透ける薄雲もとても奇麗だと気付くが、鑑賞に浸る気分ではない。
「お前はどう思う」
 立てた右膝に額を預け、目だけ向けて高杉が静かに問う。桂はいくらか黙った後、ぴんと真っ直ぐな背筋はそのままに左腕の刀を一度抱え直し、問には答えず更に問を重ねた。
「お前はそんなに未練がましい男だったか?」
「―違えよ!そんなんじゃなくてただ…俺は、」
 冷たく客観的な言葉に高杉が顔を上げて喰いかかる。桂が唇の前で人差し指を立ててやんわりとそれを諌めると、高杉は徐々に語調を弱くして最終的に俯いて黙り込んでしまった。一連の余裕のない様子を察した桂は、尚も醒めた、突き放すような態度で
「ともかく、私はあちらの事情には興味がない。好きにしろ」
「……そうかよ」
 高杉は右手に握ったままだった枯れ枝を勢いの弱まってきた焚き火の中に投げ付け、今度はその行く末を見守ることなく立ち上がり、なんでこいつなんかに全部話しちまったんだ、と口内で呟きを噛み殺しながら背を向けた。
 桂は目で追う事もしなかったが、高杉が数歩歩いたところで背を向けたまま呼び止める。
「ああ、高杉」
「なん、……!」
 高杉が振り向くと、桂がそのままの姿勢でこちらに何か包みのようなものを放った。狙いを定める事もなくでたらめに投げ付けられて明後日の方向に飛んでゆくので、高杉は腕を伸ばしてそれを受け取る。中身は手にした瞬間の感覚で分かった。意味を問われるより早く、桂が言う。
「くれてやる」
「……お互い様じゃねえか」
 桂は何食わぬ様子で顔は見せなかったが、きっと自分と同じように笑っていたんだろう。




 冷たいコンクリートの直方体の隅で膝を抱えていたは、その閉鎖的な空間に響く金属音で我に返る。自分の部屋は二重に鍵がしてあるらしく、手前の鉄格子の向こうにもう1つ柵がある。開けるのも閉めるのも一苦労らしく、出入りの度に鍵の金属音が静寂の隅でジャラジャラと煩い。
 窓のない、外界と一切遮断されたこの中では朝も夜もなく、気付くと時々質素な食事が運ばれてきた。それは定期的にもたらされているのかどうかには判断する術がなかったし食欲もさして湧かなかったのだが、放って置くと何処からか虫が湧くのを学んだので、出された物は全て胃に収めるようにしていた。そうした所で結局あちこちに虫は這っているのだが。一体どこからこんな所まで辿り着いたのか聞いてみたいものだと見かける度に思った。
「腹は減るか」
 例によってまた食事が運ばれてきたのかとばかり思っていたが、どうらや違うようだった。聞きたくもない声で気が滅入る。
「最近江戸でも貧富の差が目立つようになってなあ、被差別部落では餓死する者も出ているそうだ。その時世に、獄中の人間が食に困らぬとはおかしな話と思わんか?」
 よりによってはよく喋った。意識がはっきりしないまま頭痛がしてくる。
「まあお前を餓死させるつもりはない。他にもっと苦しい死に方があるからな…だが一日中ただそうしているだけのお前にせっせと食事を運ぶのはどうにも解せん」
 言いたい事ははじめから分かっていた。まったくもって回りくどい。物心ついた頃から尊敬と畏怖の念を抱いて見上げ、追いかけて来た男の背中の裏側はこんなものだったらしい。
 はするりと立ち上がり、鉄格子を挟んでと向かい合う。目に映すのも億くうで俯いていたが、相手にはそれが服従のように見えたのだろうか。はそのままが跪ひざまずくものと思い口角を吊り上げたが、はその歪んだ頬目掛けて唾を吐き付けた。
「―!!…貴様…!」
 眉間に皺を寄せたは左手の甲で頬を拭い、右手に持っていた盆と食事を地に叩き落とす。安物のプラスチックの食器だったため割れなかったが、派手な音と一緒に飯が飛び散った。
「恩知らずめが……楽に死ねると思うなよ」
 あれだけ恐れていた目で睨まれ、どすの利いた声で脅されてもは何とも思わなかった。それどころか、くわんくわんと弧を描いて回る器が中々鳴り止まないのが可笑しくすらある。しゃがみ込んで汚れてしまった床を見つめ、こりゃまた虫が湧くなあと考えたが、これで虫の腹が満ちるならそれも悪くないんじゃないかと思った。
 覚悟はある。自分が処刑に掛けられる前に舌を噛んで死んでやろうと決めている。今はまだ早い、あの男の手に掛かる寸前が最も望ましい。そうして自分をそれまで生かした時間と手間を、丸きり無駄にしてやるのだと。昔の自分には考えられない事だが、今の自分ならできると確信していた。
 死を以ってようやく価値を得る自分の命が哀しいような気もしたが、それは深く考えなかった。




 だらりと投げ出された足の横を、見慣れた虫が通る。禍々しい外見で一般的に忌み嫌われる種のそれも、今は何とも思わなかった。むしろ、始めの頃は蹴飛ばしたりして申し訳なかったと感じている。
 うっすらヒビの入った壁に背を預け、そうしていると体温をぐんぐん吸われていくようだとは感じていた。ふと思い出したように胃がきりりと擦れだすその感覚に、僅かに顔をしかめて膝を引き寄せる。腕に力を込めてぎゅうと腹を圧迫したが、体の間からはぐうと内臓の音が漏れた。
 とのあのやり取り以来、食事は運ばれてこない。まあ当然だし覚悟の上だったが、こんなにも内臓が反応するとは思わなかった。どうやらあの時の食欲のなさは、時折の食事あってのことだったらしい、矛盾しているが。長時間空のままにされた胃は無駄に動き回って、今や自分の中で一番元気な部位だ。断続的にぐうぐうと存在を主張する様は必死に生にしがみ付こうとしているように見えて、あまり聞きたくなかった。
 若干間が空いて、またみぞおちの奥らへんがきりきりし始めた。その上に両手を添えて、温めるように擦る。また鳴り出しそうな感覚が込み上げてきたが、次の瞬間の轟音でそれは引っ込んだ。
 ―ガシャン!
!いるんだろ!」
 外側の格子をガタガタ揺らして、男がこちらに向かって叫んでいた。高杉だった。こちらからは奥の薄明かりでぼんやり見えるが、向こうからは真っ暗でほとんど何も見えないらしい。何重にも巻きつけられた錠をどうにかしようと手を焼く音が聞こえる。
「テメェ、んな簡単に死なせねえからな!お前はそんな安かねえんだよ!」
 思わず立ち上がって格子にしがみ付いた。答えたかった、今すぐに。
「(しんすけ、しんすけ…!)」
 けれど肺から送り出される息はどんなに力を込めても喉を素通りして行って、掠れた空気の音が漏れるだけ。口も喉も渇ききってイガイガする。唾液も出ないままむりやり嚥下すると、粘膜が張り付き焼けるように熱かった。
「(しん、す…)…かは!っけほ、けほ…」
 空の胃に溜まった胃液が逆流しそうになって、手で口を覆い背を丸める。整理的な涙が出そうだ―そこではっとして気付いた。これだけの騒音を立てて何故誰も来ない?憎たらしい忍び笑いが頭を過ぎる。
「(罠だ…)」
 顔を上げると、高杉の背後に潜む影がいくつも見えた。そろそろと動いてこちらに迫る。格子を握る手が震え、動悸が激しさを増して、呼吸が浅く速くなった。自分の非力さと情けなさに涙が一筋落ち。一際大きく息を吸い込んで、これでもかと喉を搾る。
「晋、すけえっ!…後ろ!!」
 久方ぶりに震えた声帯から出たのは女の金切り声のような切羽詰った音だった。それと同時に、黒い影が高杉に斬りかかる。誰からも見えないように、高杉は喉の奥で笑った。

 ―ドォン―
――!…わ…!!」
 眼球を刺すような一瞬の閃光の後、腹を底から揺さぶるような爆発音と共に大量の煙が弾け飛んだ。咄嗟に手をかざしたもののも爆風に押し倒され、後方に倒れこむ。そっと手を下ろすと、灰色に舞う煙の中から人影が浮かび上がった。着物の袖でぶわっと風をきると煙がはける。
「晋助…!」
「…桂特製だぜ」
 手前の格子に掛けられた錠は、高杉が手にしていた刀の柄で強く突くと簡単に壊れた。厳重になっていたのは主に外側だけだったらしい。
「晋……」
 ギィと鳴って開いた扉からが飛び出して駆け寄るが、高杉は静まり始めた煙を一瞥して冷静にを制した。
「細けぇ話は後だ」
 腰にもう1つ提げていた刀をに手渡す。のものでも上物でもないが、柄を両手でぎゅっと握ると全身が熱くなった。確然とした仕草で鞘から刃を抜くを、高杉は下目でちらりと見遣って
「信じていいんだな」
「お前が信じてくれるなら」
 上目のと目が合った。

「―しかし参ったな、こんなに集まってくれるたァ予想外だ」
 爆破された入口の向こう側では、おびただしい数の人影がこちらに刃を向けて目を光らせていた。
「……これっていわゆる四面楚歌?」
「いや、絶体絶命」
「同義語だろ」
 下らない言い合いは昔から余裕の裏返しだ。高杉は携帯していた包みから「取っておき」と丸い塊を取り出す。は見たことのないその大きさに目を丸くした。
「そりゃまた大層な…」
「試作品らしいけどな」
「………お前らしいよ」
 得意げな笑いと呆れ笑いが重なったその次、2人同時に足を踏み出していた。




「あれーこんなんいつ撮られたんだっけ」
 人通りの多い通り沿いに置かれた掲示板の前で、揃いの笠を被った男が2人並んで立つ。
 『 この顔にピン!ときたら110番 』の文字の下、どこか覚束ない目付きのやせ細った男の写真が貼り付けてある。左目に包帯を巻いた背の高い方の男が、隣の男と横目で見比べてニヤ、と笑った。
「有名人は大変だなァ?」
「……お蔭様で」
 後々、その貼り紙の横には不敵に笑った片目の男の写真が並べて貼り出されることになる。


 東の方角から物騒な群れが大音声と共に駆けてきた。2人は笠を深く被り直し、日の沈みかける西へ向かって走り出す。目を上げれば夕陽の向こうに、一面ただただ真っ新な世界。怖くなんかないさ、ましてや君と一緒なら…ねえ?
 隣を見上げると朱に染まった横顔が凛々しくて、惚れ惚れしてしまうよ。笑われるから言わないけれど、目が合ったら、何だよ、って結局笑われた。


 夕間暮れの江戸の街並を2つの影が並んで駆ける。その後を追う黒い群集の足跡が雑踏に紛れ、立ち並ぶ家々に木霊した。

We're going now.

長々じめじめとお疲れ様でした。タイトルが4つしか浮かばなくて強引に丸め込んだので所々駆け足感が拭えないですが、少しでもお楽しみ頂けていたら嬉しいです。因みにご察しかとは思いますが、お品書きページの写真は実際のくちなしの花です。白くて奇麗だったので使ってみました。

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2005/9/6  background ©ukihana