「絶対おかしいだろ…あの日の会合で生き残ったのはアイツだけだぜ」
「総裁様を見殺しにして自分だけ生き残るとはなあ…」
「いや、見殺しったって、あれだけの重役が皆殺しだぜ?一人で逃げ切れる規模じゃねえ」
「…どういう事だ?」
「スパイなんじゃねえかって話さ」
「―まさか!御老職様の一人息子だぞ?」
「いや、でも軟禁の噂もあったくれぇだし…前科アリなんじゃ… 「おい!」 …おっと」
 昨夜の重役惨殺事件に、御所内は騒然としていた。役人が数人輪になって話し込んでいる横を俯きながら歩くが通る。それに気付いた役人達は話を止め、目の前を通り過ぎてゆく渦中の人を静かに目で追った。
 に関する良からぬ噂は、昨日の今日にもかかわらず御所内を駆け回っている。本人も気付いていたが、一々否定して回る余力もないし、そうしたところで益々疑いが深くなってしまうのが落ちと分かっていたので黙っていた。しかしこれだけ話が大きくなっては、自分に降りかかる災難は並大抵な物ではないだろうと感じていた。まず縁組は解消だろう。そうなったら免職は避けられない。それどころか通謀の噂が事実にこじつけられて、最悪、首を刎ねられることもあるかもしれない。
 しかしどの道、老中の一人息子という素性を失っては自分には生きる道がない。だったら死に方くらい選んでやろうかと、は御所を飛び出した。



成し



「あいつ、生きてたぞ」
 たまたま2人きりになったところで、そう言えば、と高杉がいきなり切り出すので、桂は何のことだか直ぐには理解できなかった。
「…のことか?」
「陸軍総裁の側近だとよ。ハッ、ヒラの役人が随分な出世じゃねえか。どんな風に媚売ったんだか聞いてみてえもんだ」
 そしり笑いながら饒舌に話す高杉に、桂の眉間に皺が寄った。
「何をそんなに苛つく?を探していたのは自分だろう」
 桂の指摘に高杉は一瞬きょとんとしたが、すぐにばつが悪そうに目を逸らす。
「…苛ついちゃいねえよ」
「お前は機嫌が悪い時ほどよく喋る…はあの時来なかった。その時点でこうなる事も想定していたはずだ」
「……分かってる」
 途端に口数の減った高杉は、ぽつりと覇気のない返事を返した。
「それで、斬ったのか?」
「…は?」
をだ」
 再び黙って目を逸らす。桂は呆れた様子で溜息を吐いた。
「陸軍総裁の側近を見逃したのか」
「………」
「…高杉」
「じゃあどうしろってんだ!」
「言わなきゃ分からんのか?」
 間髪居れずに桂に詰め寄られ、高杉は口を開いたまま言葉を失う。
「相手が例えどんな顔でどんな名前だろうと、我々には関係ないはずだ」




――は何処へ行った!?」
 御所内を大きな足音で歩くが声を荒げた。後ろに付いていたが、柔らかい宥めるような口調で返す。
「存じておりませんが…外へ出られたのでは?」
「何としても連れ戻せ!」
「…御老職様、お言葉ではございますが…」
 気が立っている様子のは険しい目で振り返ったが、恐縮しつつもが続けた。
「縁組は解消なさるおつもりでしょう…通謀もあくまで尾鰭の付いた噂です。でしたらもう彼のことは…」
「ならん。家の汚点としてあいつは必ず処分する」
 有無を言わさぬ態度にがたじろぐ。
「分かったら早く行け」
 の返事を待たずに、はつかつかと歩き出した。


 御所を出たの足はまっすぐ、ある場所に向かっていた。
 ちょうどこの時間帯、西日の奇麗な場所がある。街から少し外れた場所、細い石橋。車の普及率が増して道路が整備されたことで使われなくなったため、人影は疎ら。でも遠くの山に沈んでいく夕陽とそれを映して赤く流れる川はとても美しくて、高杉と2人でしょっちゅう見に来たし、待ち合わせの場所にもよく使った場所だった。
 日が沈む前に辿り着くと、朱色の景色の中に人影が1つ。こちらに気付いて振り向くと驚いた顔をしたが、たちまち目を細めて言葉を投げ付けた。
「……何だ…殺されに来たのか?」
 その通りだったがは頷かなかった。橋の中央の高杉から目を逸らさないまま、静かに距離を詰める。
「テメェ…何とか言ったらどうだよ」
 腕を伸ばせば触れられそうな距離にまで近付いたところで、高杉が刀を抜いた。そのまま刃をの喉に宛てがうが、はまだ目を逸らさない。
「ハッ、俺なんかとは話したくもねぇってか」
 真っ直ぐ自分を捕らえて離さないの目に、高杉は笑いを吐き出した。侮蔑したような、自嘲したような、哀しい笑い方。鋭い刃に纏わり付く張り詰めた空気も、それに合わせて小さく震えるのをは感じていた。
「幕府の可愛いペットが、随分な御身分じゃねえか?そうやって夜も忠実にお使えしてん…」
 半笑いで紡がれる皮肉が途切れた。の左手が、刀を握る高杉の右手を取ったからだ。高杉は咄嗟に身を強張らせたが、続くの行動に目を丸くした。
「…何してんだよ」
 は、左腕を自らの方へ引き寄せる。当然その手に掴まれた高杉の右手と、それに握られた刀もの喉に迫る。驚いた高杉が右腕に力を込めその動きを止めようとすると、は左腕の力をより強くして。刃がの喉の寸前で前後し、まるで平衡する綱引きだった。力いっぱい、震えるほどに。
 やがて業を煮やした高杉が空いた左手での体を突き飛ばす。同時に右手を強く払ったため握られていた手が解け、は後方へよろめいた。刀が静かに鞘に戻る。俯いてしまったを震駭した目で見る高杉は少し息を荒くして、戦慄くように
「………何、考えてんだお前……」
 表情を変えないはしずしずと顔を上げ、流れるように、吸い寄せられるように高杉に詰め寄る。いきなりの事と、音を少しも立てないような動作に高杉は呆然とし、気付けば唇が触れていた。

 自分の内で渦巻く思いが、こうして直接、繋いだ先から伝わればいいのに。
 汚いこと擦り付けようとしてごめん。裏切って、傷付けてごめん。それでも、俺はやっぱり君のことが―
 伝えたいことはたくさんあるのに、1つも叶いやしない。それは声が出ないからではなくて、今のこの状態では、例え喋れてもうまくは伝えられないだろうなとは思った。

 懐かしい愛しい感覚に高杉は目を閉じる。両腕を伸ばそうとしたが、それより早くの体が離れた。不安げに揺れる高杉の目と、涙に濡れるの目が合う。
 ご め ん
 震えるの唇が静かにそうかたどった。高杉はそれを読み取ったが、の真意がいよいよ分からず不安の色を濃くする。意味を問いかけようと高杉が口を開いた時、はその肩の向こうに黒い役人の影を見た。
「なんっ……!!」
 は瞬時に高杉の体を両手で掴み、強引に橋から引きずり落とそうとする。驚いた高杉は咄嗟に手摺りに掴まったが、上からにぐいぐい押され、遂に川の中に沈んだ。ザパン、と水飛沫が上がったのをが見届けたすぐ後に、
「いたぞ!」
 橋の向こう側から役人が数人駆け寄ってくる。は逃げる事もせず大人しくしていたが、意味もなく乱暴に捕らえられた。両手を後ろ手に縛り上げられて、近くに付けた車に、投げ込むように乗せられる。車は唸るように煙を吐いて御所の方角へ戻って行った。
「…どういう事だよ……」
 流されないよう橋桁に掴まった高杉は、水面からその一連の騒ぎを見ていた。誰に対してなのか自分でもよく分からない、もしかしたら自分に対してなのかもしれない激しい憤りに声が震える。
「なんで何も言わねえんだよ!?」
 行き場をなくした高杉の拳が強く水面に叩きつけられて、大きな飛沫の柱が上がった。




 拘置所の独房に放り込まれ、薄汚い空間の隅で膝を抱えるの顔に人影が落ちた。見上げた先には、父と呼んでいた人。
「縁組は解消した。お前とはもう赤の他人だ」
 冷たい空気の張り詰めた拘置所に、その声はひどく響いた。は見上げた視線を逸らさない。
「…他人の自分に何故こだわるのかという顔をしているな」
 じっと強い目線で見上げ、物言わずに自分を問い詰めるかのようなを、は煙たがる目で見ていた。
「醜い目を……汚らわしい女の血が流れているだけのことはある」
 自らの実母を匂わす言葉に、の目の色が変わる。はその反応を楽しむかのように、唇をいびつに歪めて話を続けた。
「聞きたいか?家に嫁ぎながら志士と交わりを持った卑しき淫女のことだ」
 は母親を知らない。自分は孤児で、それをという慈悲深い老中に拾われ、道端で野垂れ死ぬところを救われたのだと。乳母はいたが、養父は独身のため養母はいないと。そう聞かされて、それを信じて生きてきた。
「出来る限りを尽くしたものの…トンビが鷹には化けられんかったようだな」
 はは、と短く乾いた笑いを残し、は背を向けた。最後に一度立ち止まり、一際大きな声で、
「あの女には随分と振り回されたものだが…これで全て終わりだ」
 そう残して去って行った。

 の背中が消えた先をしばらく眺めていたが、はっとして自分の掌を見る。左手で右の手首を握ると、指先に脈の打つ感覚が伝わってきた。
「(俺にも、侍の血が流れてるんだ)」
 そう思うと、全身を駆け巡る赤い血が熱を帯びていくようで。胸の奥底から昂る何かに、は自分をきつく抱きすくめた。


……はいるか!」
「はい、ここに」
 御所に戻ったは開口一番にを呼び寄せた。
「拘置所の警備を倍にしろ。今すぐだ」
「…失礼ですが、どのような狙いで?」
「あいつの投獄の情報は伝わっておろう…誘き出された浪士どもを一人残らず捕らえるのだ」
「し…かし、御老職様、彼は仮にも貴方様の…」
「縁組は解消した。…言いたい事はそれだけか」
「…了解いたしました。早急に手配します」
 頭を下げたが部屋を出たのと入れ違いに、もう一人の役人がやって来た。
「御老職様」
「何だ、入れ」
「仰られた通りの条件の孤児のリストです」
「ああ、ご苦労だったな」
 は受け取った書類にパラパラと目を通す。
「もう名前は決めておいでですか」
「そうだな…『』以外だな」
 ふ、と鼻で嘲笑した。



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2005/8/19  background ©ukihana