「んー…」
「あ、起きちゃった」
 ぼんやりした意識の中で朝の光を感じ取り、重たい瞼をこしこし擦ると上から声が降ってくる。うっすら目を開けたら思ったよりずっと近くに銀時の顔があって心臓が跳ねる。
「……な、に」
「いや、可愛い寝顔と思って」
 これ見たくて早起きしちゃった、と笑いながら、額に掛かった前髪を優しく梳き、露になった額にそっと唇が落とされる。全身が内側からくすぐったかった。そのまま鼻筋を滑り、甘い音を立てて唇が重なる。お互いまだ何も身に着けていない、寝起きで体温の高い肌が触れ合って、夕べの熱がぶり返しそうだ。
「ン……も、時間」
 銀時は予想外にずっと優しかった。優しいというか、言葉にせずとも自分を気遣ってくれているのがよく分かった。その延長線上が今朝の口付けであり、名残惜しむ自分の本心と、彼の肩とを同時に押し返す。
「辞めないの?」
 の顔の両側に肘を付いて、相変わらず髪を梳きながら、掠れた声で聞いてきた。何のことか分からないので、が目的語を問うと、
「この仕事」
 銀時の微かな身じろぎに合わせて肌が擦れて、はぴく、と眉を動かす。
「………なん、で」
「他にないならうちで世話してあげるよ。贅沢できないけど、ここより悪くないと思う」
「………」
「うちにおいで?」
 思いも寄らぬ提案に、は言葉を失った。瞬きを繰り返しながら、寝起きの頭をフル稼働させる。銀時の目は真っ直ぐで、易々と返事は出来なかった。
「……うれしい、けど」
「けど?」
「そんな簡単には辞められねんだ、自分で始めたことだし」
「……」
 自分で責任とりたい、と告げると、銀時は少し目を伏せて、そっか、と返した。
 体が離れて、銀時が着替えを始める。朝の空気は冷たかった。も体を起こして着物を手繰り寄せる。薄明るい部屋に布擦れの音だけ、やけに大きく響いて耳が痛い。いつもは本心になくたって自然と出てくる、「また来てね」の一言が、喉で引っ掛かって出てこなかった。



背中の亀裂



 無言のまま1階まで付き添って後ろを歩き、出口に立ったら銀時が振り返った。顔が見れない。俯いたままでいると両腕が伸びてきて、片耳にちゅ、と唇を寄せてから
「…また来るよ」
「!」
 はっとして顔を上げたが何も返せないうちに、銀時はふんわり笑って朝日に溶けていった。
 そりゃ確かに、この仕事をいつまでも続けるつもりはないし、始めた理由だって、手っ取り早く金が稼げるから、それだけだ、でも。これ以上彼に近づいたら、過去との接点ができたら、昔の自分に一歩、戻ってしまいそうで。それの何が悪いのか考えても答えは出ないのだけれど、それだけは洗脳の様に反射的に、理由もなく拒んでしまうのだ。


 昼時とも間食とも言えない微妙な時間帯だったが、腹が空いたので外へ出た。飲食店の並ぶ通りを歩いてメニューを一通り物色したのだが、外食は気が進まないので惣菜を適当に買って済ませることにする。
「…うん、帰るか」
 それを終えたら特に寄り道する所もない。片手のスーパー袋をガサガサ言わせながら家までの道を戻る途中、横断歩道の前で信号待ちをしていた所、女性の甲高い悲鳴を皮切りに背後が突如騒がしくなった。
「…うわ、オイ、赤信号だぞ」
 振り向くと人ごみの塊が走り迫って来て、そのまま棒立ちしている自分と衝突すると無数の肩が遠慮なくぶつかる。すれ違う顔はどれも恐怖に引きつり、信号無視して走り去った。何かあったのだろうか。尋ねようにも止まってくれる人はいない。興味をそそられたは逆流の中を掻き分けて進むことにする。途中何度か、邪魔だどけ、という荒々しい罵声が聞こえた。人の波が途絶えると、夕時の商店街というのに人っ子一人見当たらない。群集があれだけ慌てふためく元凶すらも見当たらないので、おかしいな、とが辺りを見回した、丁度そのとき、
「ぐわっ!」
 すぐ傍の喫茶店から1人の天人が青い顔をして(あれ、元から?)飛び出してきた。それを追って刀を手にした男が血気盛んに叫びながら続々と…攘夷派浪士だ。桂さんも混ざっているかもしれない。勢いのそのままに戦闘開始。おいおいこの街中でかよ…まあギャラリーは自分だけだけれども。ちゃっかり物陰に隠れつつ、その戦いにしばし見入る。真剣の戦い見たのなんて戦争以来だ。数的に攘夷の方が随分多いので、きっと前々から綿密に作戦を練っていたのだろう…
 騒ぎも終盤に差し掛かり、目を奪われていた自分にはっとする。何を考えるまでもなく、足は帰路を全速力で走っていた。遠くで静まりかけた騒ぎがまた一段と大きくなる。真選組が到着したんだろう。


 カンカンカンカンカン!店の寮の錆びた鉄階段を前例のない速さで上る。驚いた女将が、まだ時間あるわよ、とか言っていた気がする。いつもは慎重に扱うドアノブを強引に引き、そのまま閉めるのも忘れて、久しぶりに押入れに手をかけた。立て付けが悪くて一度には開かない。力任せに開けようとすると襖が外れそうになったが、なんとかこじ開けた。膝を付き、入っている申し訳程度の荷物を乱暴に掻き分けて、掻き出して、その一番最後。冬物の分厚い掛け布団をどかしたその後ろに、あった。ちゃんと、ずっと、ここにあった。
さーん、女将から伝言…うわ、随分散らかってますね」
 急に名前を呼ばれて体が跳ね上がった。振り返ると後輩の小さな顔が控えめにこちらを覗き込んでいる。
「あ、ああ、ちょっと、掃除をね……で、なに?」
「ああ、女将から伝言なんですけど、今日は少し早めに来るようにとのことです」
「あー…そう。わかった、ありがとう」
「いえ、それじゃお掃除頑張ってください。ドア閉めておきますね」
 可愛らしいはにかみ顔で一礼し、軋む音を立ててドアが閉る。大量の溜息をつくとそのまま力が抜けて倒れこんでしまいそうだ。いけないいけない、と頭を振り、気を取り直して向き直る。相手は待ち侘びているように見える。
「……久しぶり」
 何も、変わっていなかった。奥にあったから埃も被ってない。錆もそんなに見当たらない、というかこの錆は前からあったような気がする。
 深呼吸、姿勢を正して手を伸ばす。甲の古傷が目に入る。指先に冷たい感触。そっと、でも強く握った。ゆっくり引き寄せて、両手で握る。懐かしい。頭では忘れていたことを五感が呼び覚ます。慣れた手つきで鞘から抜いた。思ったよりずっと自然、体が覚えている。スラリと心地よい音が耳を刺激する。
「うわー…」
 刃は想像以上に奇麗だった、というか凄く奇麗だった。覚えてなかったけれども、ちゃんと手入れして仕舞っておいたらしい。カーテン越しの夕日に濡れて光る刃に顔が映る。鎧を着ているみたいに体が重い。映った顔もいつもとは違って見えた。


 再び、寮の階段をものすごい速さで、今度は駆け下りる。一番端の部屋の子はきっと騒音に驚いているに違いない。寮を出るとそのまますぐ近くの店に駆け込み、入り口から奥まで聞こえるように叫ぶ。
「女将!ちょっとすいません、俺今夜急用で…休ませて下さい!」
「は!?ちょっ…
「ほんとごめんなさい!!」
 腕の中の刀を抱え直して、女将が顔を出す前に背を向けて走り出す。後輩の伝言からするに、今夜は大事な客が入っていたんだろう。背中にいくつか声を掛けられたが、心の中で謝罪を繰り返し、足を止めることはできなかった。夜道を駆け市街地を出て家も疎らになってきた頃、思い出した。
「あ!やべ、約束…」
 仕方なく引き返して酒屋を探す。運良く近くに見つけたが、既に店は閉まっていた。申し訳ないと思いながら遠慮気味に戸を叩く。奥は明かりがついているので誰かいるだろう。
「すいませーん」
「…はーい…あら、お客さん?」
 少し間を空けて店の明かりが灯り、少し若い感じの娘さんが顔を出してくれた。同年代だと思う。俺の顔をじっと見てるけど…うん、惚れないでね。
「あの、すみません、お酒を買いたいんですけど…いいですか?」
「あ、はい!構いませんよ…どちらを?」
「えーっとそれが名前覚えてなくて…あの、深緑の瓶に白いラベルのやつなんですけど。ちょっと高めの」
「あ、それなら多分…」
 彼女が一旦奥に消え、酒瓶を抱えて戻って来た。
「これじゃないですか?」
「あー!これこれ!ありがとうございます!これ下さい!」
 慌しく出掛けてきたが、財布ちゃんと持っていてよかった。そして多めに入っていてよかった…ついでにおつまみもいかがですか、なんて言われたのでつい買ってしまう。さすが商売上手だ。
 多くなった荷物を抱えてスピードは落ちたが雑木林を抜け、無事に辿り着く。いつもと違って一面真っ黒。夜来たのは初めてだから、不気味と言うより新鮮だ。月が出ているので明かりは十分。碑に歩み寄って、いつものように名前をなぞる。
「約束どーり!買って来たぞ。これで間違いねえだろ?」
『ありがとな。高かっただろ』
様にとっちゃ安いもんよ。たんと飲め!」
 スポンと詮を開け、上から景気よくぶっかける。日本酒のツンとした匂いがあたりに漂い、生い茂る草を濡らした。
「かんぱーい」
 ちょうど名前のところに瓶ごとゴツンとぶつける。杯まで用意していなかったので瓶に口をつけて余りをそのまま飲むが、一口飲み込んだだけで、うげ、となった。舌がピリピリ痺れる感覚とか、鼻に抜けるアルコールの臭いとか、何がいいのかいくつになっても理解できない。
「こんなんが美味いか?」
『馬鹿言え、これがいいんだろうが』
 はそんな俺の隣でいつも、美味そうに杯を呷っていたっけ。それこそ喉がカラカラに渇いたときに飲む水のように、さらさらと。酒が入ると、はいつもより更によく笑った。赤くなった顔に白い歯が際立つのがあいつらしい。
、俺さあ…酔っ払ってないでちゃんと聞いてくれよ」
 2口目を飲む前に瓶を置いて、代わりに、荷物が増えてからは腰に提げて来た刀を取り出し水平に掲げて月明かりに照らして見せた。がちらと視線を寄越すのを感じる。まだ酔ってないだろ。酔うより先に顔が赤くなるんだもんな。
「俺、もう1回、コイツと生きようと思う」
 が視線を外してまた酒に口をつける。真剣な話をするとき、お前は人の目を見れない。真っ直ぐすぎて、変なところで恥ずかしがり屋だよな。
「なんつーか、ずっと忘れてたけど…久しぶりに手に取ったら色々思い出したんだ」
 こんな事わざわざ言わなくたって、きっと全部お見通しだろうけれど、俺の口から、俺の言葉で伝えたいからそのまま黙って聞いてほしい。
「それで気付いたんだ。俺にはやっぱこれしかないってゆうか…もっと、試してみたい」
 はまだ残っている杯に酒を並々と注ぎ足した。ほんっと恥ずかしがり屋だよな。思わず噴出しそうになるのを堪えて、言葉を続ける。
「今までは、この手の傷とか…見ると、辛いこととか、苦しみしか思い出せなかったんだ。そんなんばっかで、ガキの頃、道場の皆で腕競い合って、毎日毎日、朝から晩まで稽古して、負けて悔しいとか、痛いとかあったけど、それでも飽きないくらい楽しかったの、忘れてた」
『…ああ』
「別れも、もう怖くなくなったんだ。銀時が教えてくれた」
『知ってる』
「え」
 いつの間にか、ニヤッと唇を曲げてこっちを見ていた。なんだ、そのじじ臭い笑い方は。恥ずかしさで、酔ってないこっちまで赤くなるじゃないか。
「あと…気付いたのはさ、俺、ずっとに遠慮してたんだ。怒らないで聞けよ?俺ら…ずっとライバルだったからさ。俺だけこの道続けたら、お前に悪いかなって…ちゃんと考えてたわけじゃないけど、心のどっかで、そう思ってたんだと…思う」
『怒らねーよ、バカ』
「ありがと。もう遠慮も止めるから」
『お前の人生なんだから好きに生きろよ。あの約束も、もういい』
「…なんで?」
 をじっと見つめても、目線を返してくれない。怒らないって言ったくせに。本気で言ってるのか。
『もう必要ないだろ。お前2人分は重すぎるって分かったし』
「……ご、ごめん…」
『そーゆう意味じゃなくて。あと、ここにももう来るなよ』
「…え?」
『次会う時はあの世で、だ』
 笑った顔を正面切って突きつけられた。お前は、本当に、心の底から嬉しくて笑うとき、歯を見せずに唇だけで笑う。
……」
『めでたい酒になったな!の新しい門出を祝って、改めて乾杯!』
「乾杯…」
 再び酒瓶を持った。ありがとう。何回思ったか分からない。何度言っても足りないけど、言うまでもない。わざわざ言ってもきっと怒るから言わないでおこう。




「……ん…」
 昇った太陽が眩しくて目が覚める。ああ、あのまま寝ちゃったんだ、と気付くまで結構な時間を要した。
「……あれ?」
 なんでここに居るんだろう。雑木林を抜ける前の道。ちょうど、前に桂さんと会った辺り。生い茂る草木の間には横たわっていたが、ここまで歩いてきた覚えがない。記憶が飛んでるんだろうか…左手にしっかり鞘を握っているのを確認する。そのあと目を擦った右手を見て、目も酔いも一気にさめた。
「!?―なんで…」
 傷が、消えている。元からそこに傷なんて無かったかのように。近くで見ても、触っても、つねっても、叩いても…完全に、消えている。無くなっている。持ち物は左手の刀だけ。酒瓶も、買ったつまみも見当たらなかった。は半ば呆れたように笑いを漏らし、立ち上がって汚れた着物の裾をぱんぱんと叩く。後ろを振り返ると、人の出入りを拒むような、どこまでも続く獣道。お前って奴は、また背中押してくれるんだな。次に会ったら恩返しが大変そうだ。果たして何年後になるだろう。案外早かったりして?でも時間は問題じゃない。まあ、気長に見守ってくれや。見られても恥ずかしくないように、次会うとき胸脹れるように、俺なりに精一杯生きて見せるよ。

さあ、おっかない顔で刀を突き付けられる前に。さっさとこの場を去ろうじゃないか。



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2004/9/14  background ©0501