Deal
「こんばんわ〜」
色が褪せてガサついた赤い提灯の横、藍色ののれんをくぐった先は、最近見つけた雰囲気のいい居酒屋。
とはいっても自分にとってのいい雰囲気、であって、店内の空気はムーディーなんて単語とは程遠く、
カウンター席に掛けた自分の左後方では店の隅に置かれた古型テレビに群がるジジイどもが
ビール片手に野球観戦に興じているわけで、低い天井にへばりついて行き場をなくした煙草の煙は
増殖を続け室温を上げる一方、耳をざらざらと撫でるざわめきは途切れることがない。
まだ日の浅い新入りの俺を「坂ちゃん」と気さくに呼んでくれる店主の人柄も、この雰囲気作りに一役買っているのだろう。
他の常連に銀のつく名前の人がいるらしい。苗字であだ名を付けられるのは久しぶりだ。
「おっちゃんいつものやつねー」
行きつけの居酒屋はこの時間になるといつも賑わう。
俺にとっての行きつけであれば、まわりの奴らにとっても同じというわけだ。
座る席もほとんど固定。俺はいつもこののカウンター席、奥から3番目。ここからだと丁度、
入り組んだ狭い厨房が垣間見え、自分の注文が出来上がる様を眺めることができる、なかなか通な席だ。
「おまちどー」
1杯目のビールをちびちび飲んでいたところに、お待ちかねの1品。
焼きしいたけ!好き嫌いの別れる食材だが、俺にはこの香りがたまらん。あと触感も好き。
ほっくりいい具合に焼けている串刺しが2本、平たい和皿に並んでいる。
このまま頂いても一向に構わないのだが、俺としては醤油で頂きたいところだ。
しいたけを箸で押さえて串から抜きながら、隣に声を掛ける。
…実はこの席は先に挙げた利点の反面、調味料に手が届かないという難点があって、
一定の間隔で並んでいるそれの中間に位置するため、隣の客に取ってもらわなければならないのだ。
因みに右の方がちょっと近い。数増やしてよ、とおっちゃんに要望もしたが、それは未だ叶えられていない。
「ちょ、すんません、そこの醤油とって」
このやかましくもなく、心細くもない雑音が自分には程よいのだ。
昼間のオフィス街のような忙しなさもなければ、終電のプラットホームのような薄暗さもない。
ひとつひとつの単語はもみくちゃになって意味を失い、マーブル状のまま俺の耳に流れ込む。
それが空っぽの自分をやんわりと満たしてくれる気がする…んー、疲れてんのかな、俺。
「おいあんた、聞いてんの?」
返事がないので手元から視線を離し、右隣の男を振り返った。
左はまだ空席なので俺が話し掛けるとしたらこいつしかいないのだが、
当の本人は猪口に唇を当てたまま、焦点の合わないぼんやりした目で明後日の方向を見つめている。
こちらとしては冷める前に頂きたいので、肩を軽く叩いてもう一度声を掛けるとようやくこちらを向いた。
「あ?んだよ、そっちにもあんだろ」
「ここだとどっちも届かねえんだよ」
「…っつーかそれシイタケじゃん!うわ、寄るなシータケ星人!」
「誰がだ!捕食と被食ごっちゃにすんな!」
一発目から強めの日本酒を入れたせいで頭皮が勢いよく熱を帯びていくのを自覚しつつ、
店内の雰囲気に酔いしれていたら左手からなにか聞こえてくる。
ざわめきの中でその声だけいやに明瞭なので自分に掛けられている声だとすぐに気付いたが、
気が向かないので無視を決め込む、と、今度は肩を叩いてきた。空気の読めない奴め。
顔を見たらいかにも立派な社会人という面立ちだが、どことなく軟な感じがした。
しかしそれ以上に目を引いたのはその手元。しかも見た目以上に騒がしいときた。シータケ好きの煩い奴なんて最低だ。
「いいから貸せよ!もう!」
頭が白いのでパッと見年寄りかと思ったが、そうでもなかった。歳は俺とそうそう変わらない…いや、ちょっと上か?
体格はしっかりしているのだが、髪の色以上にそいつを老け込ませているのはその覇気のない目だった。
あれは定職に就いていない奴の目だ。いい年こいてフリーターとは、恥ずかしい奴め。
このままでは埒が明かないと即座に判断した俺は、ずいっと右腕を伸ばして醤油のビンを捕らえた。
右隣を完全に遮る格好になるが、こうすればなんとか届く距離(実験済)なのだ。
ちょんちょん、と醤油をかける間、白髪は「菌が移る〜」とかわめいてやがる。だからごっちゃにすんなつーの!
「見ない顔だな、あんた」
言いながらビンを突きつけてきた。え、俺使わな…あ、戻せってことか。はいはい。
その言い草からしてもさっきの態度にしても、やはりこいつはここの常連のようだ。
俺だって初めて来たわけじゃないがまあ片手で足りるくらいだから、見ない顔というのも間違いじゃない。
受け取ったビンを元あった位置に戻して、顔を左に向ける。まあ話し相手ぐらいいてもいいか。
すると俺が答えるより早く、そいつの箸がシータケを1つ摘まんでひょいと丸ごと口の中に放った。
うわ…あの笠の裏にある細かいヒダ、あれ見ちゃった。気持ち悪っ
「…新入りなもんで」
なんとなく、本当になんとなく、虚ろで覇気のないあの目が、どことなく、もの悲しそうに思えてきて、
醤油ビンを返すついでにちょっと話しかけてみる。
初めて見る顔だが俺も毎日来ているわけじゃないし、馴染みようからしても何回かは来たことあるだろう。
1人で飲むのが好きそうにも見えるので、乗ってくるかは…って、おい、なに人が食ってんの見て嫌な顔してんだよ。
くそ、余計なことするんじゃなかった。
「ふうん」
…え、なんだおい、自分から振っといてそれだけ?ああ、そしてまたおもむろにシータケを!
今度は茎か!茎もそんなに美味そうに食うのか!
新種の生命体を観察するかのように隣の男を眺めていたところに、もう一皿追加された。続いて2杯目のビール。
なにも注文しちゃいないのに次から次へと、随分な常連らしい。新しい方の皿も串焼きだ。見たところ肉みたいだけど
「なに、それ」
「あ?ハツだよハツ」
「心臓?」
「そ。ここのは絶品だぜ」
「へえ」
いやー、待ってました。さすがおっちゃん抜群のタイミングだよね。
俺待つのあんまり好きじゃないんだよ。だから1皿目がまだ残ってるうちに次が欲しい。
んで2皿目ったらこのハツなんだわ。俺は塩よりタレ派。この歯ごたえがたまんねえのな。あーよだれ出そう。
しいたけを一旦休めてハツの串を抜く。このままがぶり、でもいいのだけど、俺って上品だからさ、口まわり汚れるの嫌なの。
そしたら隣の奴、肉にはやたら食いついてきやがる。ずいっと身を乗り出して来たぞ。現金な奴うぜー
簡単に説明したら、へえと納得したのも束の間、すばやく箸が滑り込んでハツを1つさらって行った。
目で追いかけると、それはあっという間にあいつの口の、中、に………って!
「ふっざけんなああああああ!」
「あーうっさいうっさい、いーじゃん1つくらい……あ、これうまっ!」
「たりめーだろ!ぎゃっ、馬鹿テメ自分で買え!」
あーやっぱうまいわ肉。ていうか今まで食べた数少ない肉の中でもこれはかなりうまい部類だわ。
ちょっと硬いけどそれがいいな、うん。
後を引くうまさに思わずもう1つ、と箸を伸ばしたら、隣の奴は全力でディフェンスしてきやがった。
んな必死になってガキくせー。けど皿ごと遠くへ避けられてはさすがの俺の箸も打つ手がない。
「お前大人気ないぞ」
「どっちが!」
「んなケチケチしてっからモテねえんだよ」
「ばっ……よ、余計なお世話だ!」
「あ、図星?いやー残念。でもね、君みたいなケチ男でもでもいいと言ってくれる子がいつかきっと…」
「てめえに慰められたくねえええ!」
なにこの横暴さ!絶対俺よりこいつの方がモテねえよ!
と、胸中でつっこんだつもりがどうやら口に出ていたらしい。それに奴が突っかかってきて、
相手のことを知りもしないまま、当てずっぽうでぐだぐだな言い合いが始まった。
お互い意味を理解してるんだかないんだか口だけで喋ってるような感覚、明日になったら絶対覚えてないだろうな。
酒が進む中でそれが加速しないわけがなく、それでも相変わらず奴の箸は俺の皿を狙っている。
「あー分かった分かった、これあげるから。交換!ね!」
「いらねー俺焼酎派だしー」
「ていうかそれソーダ割りでしょ?え、なに、直で飲めないわけ?」
「ちっ、げーよ!それはこれから…っあああ持ってくな!」
あ、これもうまいな。軟骨か。さすが常連の注文には間違いがない。
これでうるさくなければなあ…まったく、こっちはつまみ買うだけの金銭的余裕がねえんだよ。
そのへん察して1つや2つくらい快く分けてくれてもいいと思うんだけどね。
そうやって自分のことしか考えねえがめつい利己主義者はろくな死に方しねえぜ、きっと。
口の中の軟骨をコリコリ噛み味わいながらそんな説教じみたことを考えていたら、
奴は更に声量を上げて噛み付いてきた。あれ、もしかして口に出てた?
その後はもう思いつく限り汚い言葉の投げ合いだ。
お前は将来絶対ハゲるだの、美人局に引っ掛けられるだの、でけえだのちいせえだの、
挙句の果てにはソーロー、いやむしろチロー!だの、酒でたがの外れた低俗な台詞が飛び交う。
誰かがホームランでも打ったのか、遠くの方でテレビの周りが盛り上がっているのをぼんやり耳にとらえたのが最後、
俺の視界から脳内から全身の筋肉にいたるまで、足元から突き抜けるような感覚でホワイトアウトした。
「…あー、もー……」
さっきからこんなだらしない声しか出て来ない。
はっきり喋るのすらしんどいのもその通りだが、それ以前、それ以上に、見てくれこの俺の右肩にぶら下がってる薄汚ねえ男を。
事の成り行きについて説明を求められると俺としても明確に真実を答えられる自信がないのだが、まあつまりは、
ドロドロに酔い潰れたこの白髪男の面倒を俺が。この俺が!請け負うことになってしまったのだ。
閉店時間になって叩いてもつねっても起きやしないこの男、おっちゃんによるとこの店に来たのは確か4回目で、
店の雰囲気をえらく気に入ってるらしくそれなりに親しくもなったのだけれど、
知っているのは本名が坂田銀時ということ、かぶき町に住んでいて居候と仕事仲間が1人ずついるということだけだそうだ。
このまま店で預かるわけにもいかないし(おっちゃんの家はちょっと離れてるから、閉店後は誰もいなくなってしまうのだ)
と、いうわけで厄介役の矛先が傍から見たら親しげに見えた(らしい)俺に向いたというわけだった。
いや…いやいや。送っていくか泊めるかの2択って酷くないか?だって初対面だぞ!
せめて「見捨てる」を含めた3択にしてほしい。その際どれを選ぶかは言うまでもない。
しかもこいつ、ここまでは歩いてきたのか荷物を拝見しても免許証や身分証明になるものを持っていないし、
住所を聞き出そうにもどうやっても起きない。従って消去法で必然的に「泊める」になってしまう。馬鹿な!
道端に捨てて帰ってやろうかとちょっと本気で考えたが、なんだろう、やっぱり俺も人の子なんだなあ。
そんなわけで店の前までタクシー呼んで、マンションの前で降りて(降ろして)エレベーターで3階に上がって、
今にも切れそうな蛍光灯がジージー鳴ってる廊下をずるずる歩いているわけだ。
「ぶっは!あー、だり…」
「お疲れさーん」
「………テメェエエエ!!」
タクシーのドアが閉まる音で意識が戻った。薄目でまわりを確認すると知らない景色で、こいつの家だとすぐに分かった。
頭はまだまったく働いていなかったから、ほとんど本能的に狸寝入りを開始して、
部屋の中に引きずり込まれてベッドの上に放り出されたところでやっと、はっきり目を開けてみる。
可も不可もない簡素な部屋だ。きれい好きなんだな。
ねぎらってやると今までのくたくたした声はどこへやら、さっきの続きかのように掴みかかってきた。
仰向けになってる俺の上にまたがって来て、散々文句つけてくる。うーん頭に響いて痛い。
俺がうざったそうに返すとまた噛み付いてきて、結局また言い合いの始まりだ。
なんかもうその時には既にソーローとチローがお互いの代名詞みたいになっていて、
(あ、因みに俺が遅い方ね。いや実際は断じて違うよ?)
「本当にチローかどうか確かめさせてやろうか」「やれるもんならやってみやがれ」みたいな流れになって、
いや、だから彼はベッドに寝てる俺の上にいるわけで、つまり2人とも同じ布団の上なわけで、
つまりその先はね、うん、まあ、あれだ、あれ。酔った勢いってのは恐ろしい。
「………」
全身が痛む朝。寝起き最悪。1分でも過去を振り返りたくない。今日も仕事。1分でも先のことを考えたくない。
なにも考えたくないのに頭は勝手にひとり歩きを始めて、何時間も先の今夜、どうしようか迷いだす。
朝帰りなんて慣れたもんだが、本当に「そういう」朝帰りは久しぶりだった。
家に上がったら、普段は放置してばかりの携帯電話を布団の中から探り出して電源を入れる。
窓から差し込む清らかな朝日とはおよそ似つかわしくない笑いが、焼けるような胃の底から湧き上がった。
頼むぜディーラー。さあ、最初の5枚は?
しいたけとハツはわたしの好物です
2006/7/14 background ©CHIRIMATU