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「はいです」

いつもの癖、業務用の挨拶で出てしまった。
たとえ未登録の番号でも、職務中であれば念のためそうするのは当たり前のことだ。
次の取引先への移動の最中だったから、局番がかぶき町のものだと確認する間もなかったし。
っていうか携帯が当たり前のこの時代に区別の局番なんていちいち覚えていない。

「もしもし?どちら様ですか?」

うわ、本当に出た。自分で掛けといて何だけど驚いてしまう。
昨日とはまったく違う声色。居酒屋で言い合った時とも、布団の中とも……あ、いやいや、失言。
結局最後までプライベートな話題は出なかったが、やっぱり会社員で間違いないみたいだ。
こちらが沈黙していると受話器の向こう側から都心の慌しいざわめきが遠く聞こえてくる。
珍しく携帯電話を使おうかと思ったんだけど、知らない番号だったら携帯番号より固定電話の方が
いくらか出やすいんじゃないか、とかそんな策略を自分の少ない脳みそ絞って考えた。
それがうまく行ったのかどうかはさておき、とにかく電話を取ってもらえた時点で成功と言っていい。
思考に忙しくてしばらく黙っていると、向こうから再度声を掛けてきた。
あ、電話って耳元で聞こえるからけっこう来るね。いや、何が?って、いやいや

「今夜、会えない?」

そこでやっと、ここに来てやっと、気付くわけだ、俺は。
いや、仕方ないだろう、むしろこの一声で即座に感づいただけでも俺の耳は優秀の部類に入る。
熱気に包まれたコンクリートジャングルを闊歩していた脚はピタリと止まった。
後ろから歩いてきた中年のサラリーマンが背中にぶつかって何か文句を言う。あ、すいません
小声で謝っているのが聞こえたのか、スピーカーからは「ちゃんと聞いてる〜?」と追い討ちがかかる。
スケジュールが押していることに気付いた俺は再び歩き出しながら、まわりに聞こえない程度の声で抵抗した。

「…ばっ…てめ、なんで!?」
「名刺くれたのはそっちじゃんか」
「やってねえよ!盗んだのか!?」
「人聞きわるーい、背広のポケットから貰っただけだもん。じゃ、昨日の店に8時ね」
「は!?待っ―」

うーん我ながら絶妙の間合いだね。そう思うだろ諸君?
もう即座に切るためにさ、受話器を元に戻すんじゃなくて、本体のあの、受話器置くところのスイッチ?
あれ手で押しちゃったからね。お陰で台本どおりの見事なタイミングだったよ、相手の反応も予想通りだし。
黒電話の前でムフムフ危なく笑ってたら引き戸がガラガラ開いて新八の声が聞こえてきた。
この時間に俺が起きていることは滅多にないので、開口一番「起きてくださーい」だ。
俺は早起き(と言える時間でもないけど)を怪しまれないといいなあ、と思いつつ名刺を胸ポケットにしまった。
来ないはすがない―陽よ早く沈め。

「おっそーい」
「残業」

…誰も俺を責めないでくれ。今、自責の念ハンパないから。これ以上だと押し潰されちゃうから。
苦し紛れに言っておくが、昨日の勘定全部俺が払ったんだぜ。返してもわらにゃいかんだろ、これは。
昨日と変わらない雑音と、狭いテーブルの間を窮屈に通り抜ける。
連日で来ることはあまりないので知らなかったが、あのおっさん達毎日来てんだな。
いらっしゃい、というおっちゃんの声に反応した白髪がこっちを向いた。昨日と同じ席。
こうなりゃ俺の座る席なんて1つしかない。いつもここだけど。
通りがけにおっちゃんに「いつもの」を注文してから席につくと、頬杖ついて文句つけてきた。
っても30分くらいだぞ。なのにその赤い顔はなんだ、お前。

「黙って約束破る男なんてサイテー」
「女かよ」

ほらね、来たでしょ。30分待たされたけど、特に不安にはならなかった。むしろ早いなって思うくらい。
残業のことは本当だろうけど、半分嘘だ。きっといつも通りに切り上げれば8時には間に合ったはず。
それをわざと遅らせたんだろ?機嫌もちょっと悪く見せてさ。そういう可愛いことしてくれるの、嫌いじゃないけどね。
この時点で既に俺が一段上手を行ってることに気付かないようじゃ、力不足だな。
気付いてるはずだ。セロハンテープで仮止めしたようなこんな関係じゃ、捨てるか、捨てられるかしかないってこと。
この先にロマンス求めてるほどお子様じゃないだろう、まさか。そんなんだったら即切ってる。
男女問わず使い捨てにはもってこいだけどね。面白くねーんだ、経験上。

「…タクシー代くらい払う気ないわけ」
「ひどーい無職の人から絞り取ろうとしてる〜」
「無職っつったら怒るくせに何言ってんだよ!」

掴みどころのない奴、という表現が一番しっくりくるような男だが、考えていることは大体分かる、と思う。
だから絶対それに嵌ってやるかと思っているわけだが、それがうまく行っているのか、正直ちょっと自信がない。
ただここで身を引くのはリタイアみたいで気が進まないし、するにしてもまだ早いと思う。だから、引かない。
ただ、それすら奴の思う壺なんじゃないだろうかと…ベッドの右隅で朝を迎えると、そう思わされる。
後悔とか自己嫌悪とか色々混じった、それこそ幸せの逃げそうな溜息をひとつ吐いて、寝返りを打つと目が合う。
窓際を背にしているので、カーテン越しの朝日の逆光で顔が薄暗く、髪が透けて見える。汗ばんだ肩は光っているし、
これ、数少ない「こいつがかっこよく見えるシチュエーション」の中でも最高ランクだと思う、個人的に。
たぶん自覚してやってんだろうな、こいつのことだから。キスもやったら巧いし。ほんと、ムカつくほど。

「ん〜…、…ぎ、んぅ」

こいつは俺のことを銀と呼ぶ。みんな銀さんとか銀時って呼ぶんだ、って言ったら、「じゃあ俺は銀にする」だって。
えーなにそれ待ってちょっと可愛いよ。みんなと同じはやだってーの?自分だけ特別にしたいみたいな?
狙ってんのか、ともすれば何も考えてなかったのかもしんないけど、だとしても銀さんやばかったからね。
回を重ねるごとに浮かび上がってきたことだけど、こいつの、の場合、
考えてやってんのか天然なのか、判断しがたいことが多い。それに俺は非常に困っている。
朝起き抜けのキスなんか特にそうで―この時だけやったらいい反応すんだこいつは。
鼻に掛かった掠れ声はもちろんのこと、目ぇ涙ぐんじゃったりさ、力の入んねえ腕で抵抗しちゃったりさ。
それで俺も熱くなって更にガッついちゃって、こいつはまたいい声で鳴いちゃって、の悪循環。
寝起きだし、多分、なんも考えてないと思うんだけど…うん、多分ね。



明後日に控えたプレゼンの準備がかなり遅れている。
仕事はどれもそうだが、今回は特に失敗できない(と何度も上から言われている)ので、俺は焦っていた。
最後から2人目の社員が、お疲れ〜と手を振って出て行くのに軽く答える。
もともとそれほど広くはないオフィスだが、1人になるとさすがに広大に感じるものだ。
節電のため自分のまわり以外の照明は消しておこう。ついでにトイレ行ってコーヒーでも買ってくるかな、と
おもいきり背伸びをして席を立とうとしたとき、携帯は鳴った。白い着信ランプは、銀専用。

「今から家行くから」
「いや、無理だって。仕事中だし」

もうわざわざ店で待ち合わせることもなくなった。純粋に飲みには行くけど。
そういえばこの間店主に、「最近と別で来るけど、喧嘩でもした?」とか言われて思わず笑ってしまった。
俺らがあの店を通して仲良くなったことをえらく嬉しく思ってくれてるようだったからね。
でもあくまで友達だと思っていたみたいだし、2人で行くことはいつの間にかなくなってたな。そういえば。
一応、その時は「次は一緒に来るよ」って返しておいた。
合鍵は、まだ貰ってない。あ、「まだ」って言ったらそのうち貰う気でいるみたい?まあその通りだけど。
黙っててもそのうちくれそうだと思ってたんだが、予想外に長引いている。
恐らく問題はの気持ち云々より、俺のだらしない生活ぶりを懸念してのことなんだろうけどね。
まあいいさ、焦る必要はない。それにほら、入れない部屋の前で体育座りして待ってるってのも、中々いいでしょ?

「じゃあ待ってる」
「いや、今日は多分帰れな…「待ってる」

またかよ!俺は携帯を投げつけた。銀の場合、一方的に切られることがとても多い。
そして俺は、それに振り回されてしまうことがとても多い。
パソコンのディスプレイに映ったほとんど真っ白の原稿はとても眩しい。
でも合鍵はまだ渡してないんだ。一応、作ってはあるんだけど(ゼッタイ秘密!)
ってことはあれだろ、俺が家に帰るまで、ドアの前で待ってるんだろ。この時期別に寒くはない、
むしろ熱帯夜だってのに、わざとらしく膝抱えてさー…
その画を思い浮かべているうち、気付いたらパソコンの電源を切っていた。
まあ、すぐスイッチ入れなおせばいいんだけど、プレゼンは、明後日だし。明日があるし。
明日のスケジュール、きつきつだった気もするけど。徹夜でできないこともない!プレゼン朝早いけど!
そう決め付けるが早いか、ものすごい勢いで鞄に荷物をかっ込んで、照明を全部消して― PM10:00退社
合鍵も今夜あたり渡してしまいそうで、ちょっと…いやかなり自分が情けない。

「あ、おかえり〜」

おお、思ったよりずっと早かった。銀さんびっくり。この暑い中そんなに息切らせちゃってまあ。
来る途中コンビニ通りかかったから缶ビールでも飲んでようかと思ったけど、買わなくてよかったよ。
「ずいぶん仕事がんばったね、汗びっしょりだよ?」なーんて言って額を拭ってやると、
恨めしそうに上目遣いで睨みつけてきた。あー、いいねえその表情!(いや、変態ではなくて)
そうやって俺を疎ましく思いながら、逆らえない自分を自覚してるんだろ?おまえが恨んでるのはおまえ自身。
分かってるよ、手に取るように。
逃げられないよう、しっかりくくりつけとかなきゃならない。捨てるのは俺だ。ただ…今ではない。
体育座りはしていなかった。脚を伸ばして座ってた。
俺に気付くと右手をよれよれと振って、のろっと立ち上がって、今の俺にもっとも効果のある攻撃。くっそ!
左手に鞄、右手に…合鍵、をきつく握り締めた。
足を滑らせて、一歩踏み込んでしまった方が負けだとは分かっている。とてもよく分かっている―頭では。

もちろんまだ降りやしない。さあ、いくら積む?



いまだに時代設定を決めかねてるっていう…


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2006/7/17  background ©CHIRIMATU