大蔵省庁舎の大臣室、奥に位置するマホガニー材のすべらかなデスクに頬杖を付き、山のように積まれた書類に片端から目を通していると控えめにドアがノックされた。少し開けた隙間から顔を覗かせたが小声で用件を告げる。一旦目を離すとどこまで読んだか忘れてしまいそうなので、顔を上げずに生返事。
「さん、お客様です」
「あ〜…?なに、急用じゃなかったら帰しちゃって」
「いや、それが…」
いつもはこれで静かに引き下がる彼だったが、まだ何か言い淀んでいるのでおかしいな、と感じてからすぐ、の体を追い越して男が部屋に入ってきた。は引きとめようと手を伸ばしたが、男はそれを冷たく払って2歩3歩こちらへ接近する。ドアとは随分離れているので、まだ距離はあるが。
「アンタが大蔵大臣か」
いかにも煩わしそうに、はゆっくり視線を持ち上げる。そして男の風貌を初めてはっきりと目にした瞬間、眼鏡レンズの奥でスッと目を細め、不快感を露にする。
「…いかにもそーですけど…、もういい下がりな」
面倒臭さを隠すこともせず、わざとひとつ大きく息を吐いた。片手で払われた側近のは丁寧に一礼して部屋を出る。重いドアがピタリと閉まり、部屋の空気を密閉した。
公僕シェパード
「キミさ、その服装でこーゆーとこ来ない方がいいよ〜?浮いちゃってるから」
が退室した後、男には構わず再び書面に目を戻したの声が部屋の中にピンと響く。わざとらしく明るい口ぶりがトゲトゲしさを強調した。反応した土方のポーカーフェイスがぴく、と引き攣る。煙草を咥えていたらフィルタを噛み潰していただろう。
「その制服は低能な野蛮人の証だからね」
散々煽ったところで文面を読み終えたようで、は机の隅に置かれていたスタンプパッドを引き寄せ、ペタペタ、バン。とひとつ判を押してからやっと、で、何の用?と顔を上げた。わざと怒らせようとしているのは土方にも分かったのでそれに乗って堪るかと思っていたが、奥歯をぎしりと言わせるのは我慢できなかった。はよいしょ、とか言いながら席を立ち、ま、座れば?と、接客用のソファにどっかり体を埋めて足を組む。土方も黙ってそれに従い、向かいの椅子に静かに腰を下ろした。総本革張りの滑らかな手触りが伝わってくる。ふんぞり返ってこちらを見下している大臣を見据え、背を丸めて膝に肘を付き、手を組んで切り出した。
「…屯所の修理費が下りてねえんで、話を聞きに来た」
「修理費ィ?んだそれ」
「領収書と一緒に経費の請求出しただろうが。見てねえのかよ」
はソファの柔らかい背もたれに片腕を回し、首を斜めに傾け視線を泳がす。照明の加減で眼鏡が反射し、目が見えない。
「あーそんなん見たような見なかったような…ま、シュレッダー掛けちゃったからもう無いけど〜」
「ハァ!?てめっ…なに考えてやがる!」
「ナニ考えてんのはそっちの方」
食いつくように前のめりになった土方を制して組んだ足を解きが顔を付き合わせる。表情と空気が豹変し、土方は怯んだ。目の前の眼鏡の枠内は輪郭がずれていて、伊達じゃないのか、と頭の片隅で思う。
「どーせチャンバラごっこでもして壊したんだろ?ンな悪ふざけの後始末に庶民の血税当てられっかよ」
唇を薄く開けたまま息を呑んだ土方にそれだけ告げると、は再び背凭れに身を預ける。
「税金が底なしに沸いて出ると思ってんじゃねーぞ」
呼吸をするのも忘れていた土方は、そこではっと息を吸い込み我に返る。脳も思考を再開し、言い返す余裕が戻ってきた。
「違う…俺らがやったんじゃねえよ!迷惑な万事屋ってのがいて…」
「あーはいはい、俺今忙しいから。この話はこれまでね」
「―!」
話を聞こうともせず、土方の口を塞ぐかのように片手の平をかざしては席を立つ。どこまでも自分を卑下した態度を取る目の前のインテリ男に対し、土方の堪忍袋がついに音を上げた。
「テメエ……真選組舐めんのもいい加減にしやがれ!!」
机に戻ろうとする背中を尖った声が刺した。左手は腰から提げた鞘をしっかり握っている。は緩やかに振り向き、張り詰めた空気に流される様子はなかった。
「おー怖い怖い。これだから単細胞は…天人サマの前じゃあんなに大人しいくせに」
「んだと…!」
土方の目が更に釣り上がる。シャン、と滑らかに鞘と刃が擦れて、2人の間に存在感たっぷりの凶器が躍り出た。刀に反射する光がキンと耳鳴りを起こしそうだ。
それにも動じないの右手が黒い長コートの懐にスッと差し込まれた。外形は真選組のそれとほとんど変わらないが、細かな部分に特別な装飾が施されている。官僚の中でも限られた者しか袖を通すことが許されない制服だ。土方の眉間が微かに動き警戒を強めた。しかし中から取り出されたのは艶やかなペン。黒と金の組み合わせが彼によく似合う。それが光の尾を引き土方の刃に迫り、カツン、という華奢な音を合図に、の口角がきゅっと上がった。
「ペンは剣よりも強し。…分かる?」
唖然とする土方に、あとで辞書引いときな、と付け加えて再び背を向ける。彼が、!と呼ぶとすぐにドアが開き、駆けつけた側近にひらつかせる右手で合図を送ると、は握られた刀に一瞬たじろいだ後、立ちすくむ土方を取り押さえて部屋から引きずり出した。
*
この仕事には変化がない。昨日も、明日も。卓上の時計が相も変らぬ一定のペースで針を進め、ペンと紙の擦れる音も同じように淀みなく流れる。大きく切り抜かれた窓の向こうは既に紺に染まり始めていたがしかし、机上に積まれた書類の高さは今朝とほとんど変わっていないように見えた。それもそのはず、少しは減ったかと思ったところで、減った分と同じ量、もしくはそれ以上の量が上積みされては、それこそまさに一進一退というものだ。
ノックの音が部屋に響いた。ドアは返事をしなくても勝手に開けられる。
「さん、そろそろ出発しないと」
「あーもうそんな時間…はー、めんどくせ」
「お疲れ様です」
は指と一体化してしまったような感覚さえするそのペンを放り出し、インクで真っ黒に汚れた指をすり合わせて、んー、と大きく背伸びをした。
に促されて庁舎を後にする。スケジュール管理は彼に任せきりなため到着するまで知らなかったが、会場は車が付けられたこの洋館らしい。言われた部屋へ足を運ぶ。今日は月に1度の会合の日で、各省の大臣が顔を合わせるのだ。と言っても今や上位幹部のほとんどは天人に牛耳られ、大蔵省以外の大臣もすべて天人が務めているため、こうして集まってみるとそれこそ宇宙動物園なわけで。その中に自分が加わっているのがなんとも悲しい。できれば観覧客の方に回りたいものだ。壮麗な洋室にひしめく地球外生命体の数々を客観的に見渡していると、隣の生き物が身を乗り出して話しかけてきた。
「おやさん。美味しそうですねえ」
「あっはは、そりゃどうも〜」
まさか自分を食うつもりかと勘違いしかねないが、目線から察するにテーブルに並んだ食事の話らしい。自分だけメニューが違うのはもはやお約束だ。同じ食事では人間の口には合わないとか何とか毎度白々しい理由をつけられるが、奴らの皿に乗っかってるのが宇宙3大珍味の高級食材であることぐらい俺にも分かる。食した事がないので味の程は分からないが、それはどこだかの星にしか生息しない不気味な希少動物の肉で、調理のされ方もかなりグロテスクだからまあ、食べたくもならないのだが。というわけで、自分は味噌汁と漬物と白米で十分だった。肉にはやはり惹かれるけども。あとできればデザートも欲しい
『いやいや、だからそこは―』
『しかしそれよりも―』
食事と話し合いが始まったところで、たいした話にもならないのだ。彼らの持っている技術は確かに優れているけれども、こうして近く接するようになると、彼らには理性と言うか、そういう自律した動物として大切なものがごっそり抜け落ちているように思えた。徐々に熱を帯び始めた座談会を、食後の緑茶を啜りながら遠目に見守る。誰も自分に話を振りやしないのだ。
「……(帰るかな)」
鳴き声のような声色にもそろそろ飽きた。喧々とし始めた輪の端で、が静かに席を立つ。途中退出は珍しいことではなかった。機嫌がいいときは最後まで付き合うこともあるが、今日はまだ仕事が残っていたし、何となく乗り気じゃない。来てやっただけマシな方だと思いたいくらいだ。奴らも、人間は高尚な話に付いて来れないのだろうとか考えているのでわざわざ引き止めない。何とも都合のいい話。
無駄に華美な絵画や壺、照明器具のひしめく廊下を歩きながらに迎えの連絡を入れる。まあすぐに来るだろうと踏み、だだっ広いロビーを突っ切りエントランスホールを抜け、荘重な扉を押し開けた。室内の暖房で温められた肌に、滑り込む夜の外気は透き通るように冷たい。
「来た……げっ、人間だぞ!」
「―チッ」
の革靴が玄関先に敷き詰められたタイルを踏んだ、その瞬間、洋館の面した通りを挟んで向かい側の建物から、チュン、と俊敏な音と共に僅かな明かりが一瞬光る。その音に体が反応するより早く、は横から迫ってきた黒い陰に突き飛ばされた。
「
――わ、!?」
そのまま玄関横の植木に突っ込む。飛び掛ってきた体が下敷きになったので、痛みはあまりなかった。足先の方で轟音が弾け、レンガ造りの玄関が吹っ飛ぶ。茶色い土煙が噴き出して目に沁みた。
「見えたぞ、あそこだ!」
薄目で周りをうかがっていると煙に霞む植木の裏から黒い影が続々と現れ、銃火が光った方向へ一斉に駆け出す。いくつもの足音が煙に飲み込まれて遠退いていくのをぽかんと見つめていたら、下敷きになっていた体がげほげほ咳き込みながらもそっと動いて起き上がった。
「―たく、早退かよ」
「…あ」
見覚えのある顔をが指差すと、差された方の土方は鼻をフン、と鳴らして白茶に濁った服の裾を叩きながら立ち上がる。はそれを上目に見つつ、汚れたレンズをスカーフで拭いながら
「何なんだ、これ…浪士か?」
土方は咥えた煙草に火をかざしながら、ああ、と短く答えた。一口大きく吸い込んで、紫煙を一緒に吐き出しながら続ける。向かいの建物ではどうやら無事、部下が標的を差し押さえたようだ。
「この辺に隠れてんのは分かってたんだが、暗くてどうにも見つかんなくてよ」
どうやら今夜の会合の情報を嗅ぎ付けて、出てくる所を狙っていたらしい、と告げると、眼鏡を掛け直しやっと腰を上げたは、マジすか、と危機感のないリアクションを返す。
「天人だったら2、3発当たっても構わねえと思ってたんだが」
よりによってアンタが出てくるとは…と続ける土方の横顔を、がじいっと見つめた。
「……なんだよ」
それに気付いた土方がどこか気まずそうにぶっきらぼうに返すと一転、ニッ、と笑う。初めて見るの「笑った笑顔」に目を丸くする土方の額に、のペンがこつんと当たった。そのままぱっと手を離すと、零れ落ちたペンを土方が咄嗟に受け取る。
「やるよ。お礼」
「
―――」
土方が何か返そうと煙草に手を掛けた瞬間、崩れ落ちた玄関の向こうで天人たちが変な音で騒ぎ出した。はその音を振り返ると苦笑し、それから逃れるようにして、
「これからもよろしく頼むよ」
笑みを残したまま、タイミングよく到着した高級車へと足を向けた。「さんこれは何の騒ぎですか…うわ、真っ白じゃないですか!」と慌てると一通りやり取りした後、それを強引に丸め込んで、乗り込んだ車はエンジン音と共に夜に消える。夕暮れ時のカラスのようにギャアギャア騒ぎ立てる天人の鳴き声を背に、土方は手の上のペンに、屯所の書斎の辞書で調べたことわざの意味を思い出し、そうしてちょっとだけ笑った。
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2006/2/14 background ©MIZUTAMA