「失礼します。さん調子いかがですか」
「……ケツ痛い…」
「夕べからずっと座りっぱなしですもんね。少し体動かした方がいいですよ」
腰に片手を当ててデスクに突っ伏しているにお茶を運んできたが声を掛ける。それもそうだな、と、は立ち上がるのもしんどそうに体中の間接をゴキゴキ言わせながら席を立った。から湯飲みを受け取り、窓際まで歩いて桟に寄りかかる。日の出から結構な時間が経つ。冷えた空気はガラスに阻まれ、日光の純粋な温かさだけが肌に溶け込むようだ。
「…、なにあれ」
「え?…ああ、警備ですよ。今朝から付いてます」
「警備ぃ?なんでまた」
「いやだから、昨日の事件を警戒してですね」
窓から見下ろす庁舎の玄関前には、物々しい出で立ちの人影が一定の間隔で配置されている。会合から帰ってきてから大臣室にほとんど缶詰状態になっていたは、今の今までそれに気付かなかったのだ。の事情説明に対しあまり面白くなさそうにゆるく唇を尖らせる。
「…うちは大丈夫だって。さすがに同じ人間は討たねえだろ?」
「狙われたじゃないですか、実際」
「あー……そう、ね」
「用心するに越したことはないですよ」
「んー、でもなんかやだよね〜人間同士でさー…」
専用の大きめな湯飲みに口を付けながらののぼやきは、陶器の中で反響して淡い緑茶を震わせた。頭を窓ガラスに預け、直立不動の姿勢を保つ警備員の列を見下ろしている。その物憂げな目にはしばし黙った。
「…要所には真選組が付くそうですので」
は何か言いたげに目線を持ち上げたが、短く、あ、そう。とだけ返して、湯飲み片手に机に戻った。
能ある鷹の爪の裏
「(くあ〜〜…)」
日も随分高くなった。窓の端に覗く木枝では先ほどから小鳥がさえずっている。のどかな空気がガラス越しにも伝わってきて、それが移ったかのようにも大きな欠伸をひとつ。顎が外れそうなほど開かれた口から思い切り息を吸い込む途中、不意にドアが開けられて、のんびり欠伸も咄嗟にぱくんと閉じた。客の顔を見たは鼻を一度ずずっと啜り、目尻に滲んだ涙を指先で拭って仕事を再開する。
「なに、邪魔しに来た?」
「まあそんなとこだ。昼休みだからな」
「………」
警備に昼休みがあってたまるかと思ったが言わなかった。土方は正面のデスクをぐるっと回り、休み時間と無関係に仕事を続けるの隣につける。は構わなかったが、土方はそのデスクに体を寄り掛け、黒い袖から覗く細い手首を見て漏らした。
「ちゃんと食ってんのか?」
「ちゃんとって何」
案外すぐに返事が返ってくる。もちろん手は休まらないが、話は聞いているらしかった。
「一日三食」
「誰が決めたんだそんなん。俺ァ俺が腹減った時に食う、それだけ」
そこで1枚書き上げたらしく、は書面に一通り目を通してから机の隅に置く。一連の動作で皺をよせる制服の艶やかな生地は外から見ても分かるほど持て余されていて、重厚な作りは彼を飾り立てるどころか、かえって線の細さを強調しているようだった。溜息半分に、お前な、と説教垂れかけた土方の口が動く前に、
「んーまあ今は減ってなくもないか」
おそらくもう空腹という感覚が麻痺しているのだろう、腹の胃の辺りをさすりながらがぼやいた。そこに丁度、出来上がった書類を取りに来たが現れる。の隣に立っている土方に一瞬驚き眉間に僅かな皺を寄せたが、小さく会釈してその場を濁した。視界に入っていないためそれに気付かないは、次の資料を紙の山の中から探りながらに言う。
「あ、〜何か適当に食うもん持ってきて」
「…適当って…また菓子パンで済ませる気ですか?」
「んじゃカップ麺とかでもいいけど…汁こぼすと困るからさあ」
「そうじゃなくてですね」
「いーから早く」
は何か言おうとしていたが、いつものことなのだろう。仕方がないという様子で書類片手に「少々お待ち下さい」と残して下がっていった。目の前のやりとりからの乱れきった食生活を察した土方はいよいよ呆れて説教する気も失せる。
「お前に食を楽しむっつー感覚はねえのか?」
「は!」
資料が見つかったらしい、ホチキス止めの厚い紙束をデスクにばさっと放った。摩擦で少し滑る。椅子にもたれて上目遣いを寄越すと、やっと目が合う。疲れてるな、とすぐに分かった。
「あのな、そもそも味覚ってのは毒と腐りを確かめるためのもんなんだぜ?酸味と苦味が分かれば十分。それ以上は無駄な進化なんだよ」
得意気に左手をひらつかせながらが薀蓄を披露する。お分かり?とでも言うように再び目線を上げ目が合うと、土方はその華奢な左手をわし掴んで引っ張り上げた。回転式の椅子がキュルッと回り、の体が浮き上がる。
「ぅうわ!なん、何!?」
「黙って付いて来い」
「いや、待っ、離せって!まだ片付いてねえんだからよ!」
土方はそのままドアに向かって歩き出した。手を引かれたは足を突っ張って抵抗するが、引っ張られる力には敵わず革靴の底は柔らかいカーペットの上をずりずりと滑る。ドア付近まで引き摺られたところでさすがに観念したのか、土方の後を付いて大人しく歩き出した。
「なあ、分かったよ、付いてくから放せって」
「……」
「はーなーせー、って、いててててて!」
土方の足は庁舎の壮麗な廊下をずんずん進む。この中の頭である自分が真選組に手を引かれて歩くのはどうかと思ったは掴まれた左手を上下にブンブン振るが、土方は押し黙ったまま握る力を強めるだけだった。
土方はその歩みのまま庁舎を出て、街中の繁華街へと入っていった。距離を空けて歩くと引っ張られているのが目立って恥ずかしいので、はできるだけ横に並んで距離を詰め、掴まれた左手が人目につかないようにして歩いた。それにしても役人の黒い制服が2つ並んで闊歩するとあっては、人目を引くのは避けられなかったが。
質素な引き戸の前で、土方の足がピタリと止まる。何も言わずにいきなり止まったための体は付いていけず、隣の土方にドンとぶつかった。文句は飲み込んで顔を上げると、少し褪せた藍色ののれんが掛かっていた。
「…なにここ」
「俺の行きつけ」
「ふーん…」
見たところ普通の定食屋だろう。ガラガラと引き戸を開けると、昼休み中の働き人で賑わっている店内から揚げ物や味噌汁の匂いと煙草の煙が混ざり合って溢れ出した。土方は慣れた様子で中に入り、ちょうど2人分空いていたカウンター席につける。場違いを肌で感じたは制服の留め具に手を掛けて上着を脱いだ。席に着くと忙しなく動き回っている店員がすぐに注文を聞きに来る。
「いつもの、と…お前どうする?」
「え、じゃあ、同じでいい」
「ん」
店内のざわめきは庁舎内のそれとは質を異にしていて、急かされて冷たいデスクに噛り付くそれとは違い、ここは煙たさや汗臭さの中に温かい活気が溢れているとは思った。席についてすぐに火をつけた土方の煙草の長さが半分ほどになったとき、目の間にドン、と2つの丼が現れる。
「はいお待ち」
「どーも」
「あ、いただきます」
片方を受け取って横にある割り箸の束から2膳抜き取る。1膳渡そうと隣の土方を見たら、トッピングとして付いてきたのかと思っていたマヨネーズを丼の上にめりめりと盛っていた。
「……なにしてんの…?」
「土方スペシャルだからな」
「あ、そう…」
見ているだけで胸焼けしそうな量なのでつっこむ気も萎えた。マヨネーズを強引に勧めてくる土方をなんとか制して、自分はそのまま戴くことにする。
「…んまい」
「だろ?」
「なんか久しぶりだなー…こーゆう、あったかい手作りの味」
会合で出される和食は精進料理かと思わせるほど冷めて固くなっているし、庁舎では仕事をしながらでも食べられるパンやおにぎりしか食べない。こうして器に盛られた温かい料理そのものが、には久しぶりだった。
「庁舎に食堂がなかったか?」
「あー、あったけど廃止した。経費削減」
「お前、どこまで…」
「こんな男にも付いてきてくれる仲間なんだよ」
「……」
「まあさすがにメシは面倒がってるけどなー」
中央省庁の上役はほとんどが天人だったが、大蔵省内だけには1人も入れられていない。の周りでいつも忙しそうにしているを思い出し、土方は少し笑った。
*
「おい、メシ行くぞ」
「…今日はいい」
あれ以来、毎日ではないにしても、2人は時間に余裕のあるときは一緒に昼食をとりに行く仲になっていた。気分次第であのときの定食屋以外の店にも足を運ぶ。主に土方の主導だったが。特に事前連絡があるわけでもなく、余裕のあるときは土方がこうして大臣室にやってくるのだ。
「なんだ、忙しいのか?」
「いいから出てけよ。邪魔すんな」
「は?どうしたよ」
「うっさい」
隣に並んでデスクに付いた片手を払われた。反抗期の子供のように一度言っただけでは聞かないのはいつものことだったが、いつにも増してつんけんしている今日のに土方は眉をひそめる。
「テメ…大概にしろよ」
肩を突き飛ばした勢いでの体が正面を向いた。襟を掴むとがくん、と揺れる。土方が割り込むように顔を覗きこんでも表情は平坦なまま。吐息が感じられそうなほど顔が近づいた。
しばし無言の睨み合いが続いた後、の口を付いて出たのは
「キスしろ」
「
――」
土方は、なんで、と聞き返しそうになるのを唇の裏で慌てて塞き止めた。の目はじっと自分を捕らえて離さない。土方は若干押されるようにして
「…目、閉じろよ」
極力冷静を装おうとしたが、身構えすぎてかえって力が入ってしまった。はそれに反応することもなく一度大きく息を吸って、静かに吐き出しながら瞼を下ろす。襟を掴んでいた右手がの耳の裏を撫でて、親指が一度薄くなぞってから唇が合わさった。
「…ふ、」
一度だけ軽く触れてすぐに土方が離れると、はそれを追うように距離を詰める。ぴく、とたじろいだ体を首に回した両腕が封じ込めた。舌を押し付けるようにして唇をこじ開けると2つの熱がぶつかって混ざり合い、更に温度が上がる。時折土方の頬に触れる眼鏡のフレームがひやりと冷たかった。
「ん、…は」
の体はほとんど土方の首からぶら下がっているような状態になり、重みで前屈みになった土方が再びデスクに片腕をつく。端に寄せてあった書類がくしゃっと乾いた悲鳴を上げ、重なっていた上の数枚がさらさらと滑り落ちた。の舌が土方の唇をするりとなぞり、息を乱して唇が離れる。
「―好き」
再び口付けそうな距離のまま呼吸を整えてからが囁いた。短いストレートな言葉に土方はうろたえ、あ、う、と口をもごつかせてから、
「…俺、も」
いやにたどたどしい言い方で返した。は何度か瞬きを繰り返した後、目の前の必死の顔に我慢できずに吹き出して肩を震わせる。
「…なっさけね」
「ば、だっ…お前、そんな急になあ、!」
土方は我に返り真っ赤になって言い返すが、立ち上がったに頬を両手で包まれてまた言葉に詰まる。身長はの方が若干低いとはいえほとんど同じなので、向かい合って立つとそれだけで視線がぶつかった。それを更にねじって絡めるように、は首をひねって顔を近付ける。
「でも好き」
目を細めて心底愛しそうに言葉が紡がれた。土方は赤くなった顔を隠すように一度咳払いをしてからの頭を肩に抱え込んで再び、俺も、と小さく返す。は笑いの吐息を漏らしながら土方の首に額をこすり付け、くすぐったそうに肩をすくめた。
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2006/3/12 background ©hemitonium.