「(…今日は悪かねえな)」
 扉を開けて一番、即座に土方は判断し、そうして少し胸を撫で下ろした。日々の積み重ねの功績―と言うほどの価値があるかどうかは疑問が残るが―により彼は、少々距離を置いたその場所から勤務の様子を伺うだけで、その日のの機嫌を推し量れるようになっていた。つまりそれは「様のご機嫌」というものの重要性、それが及ぼす影響の大きさを示している。とはいえなにぶん表情が顔に出るタイプではないので、当初は隣に立って顔色を伺い、二言三言交わさなければ見定めることができないでいた。そのせいで被った損害も中々に多い(思い返したくない)のだが、そのお陰で今の状態に行き着いている。
 そんな土方が下した「今日の」診断結果は3.5(0.5刻みで10段階。5が最良だが滅多にない)因みに彼が毎回この扉を開ける度にこのような独断診察を行っている事はもちろんには内密である。うっかり口にしようものならそれこそ、自分から不機嫌の地雷を踏むようなものだ。しかし似たようなことは彼の侍者(役職上違うが、事実上そう言っていい)であるも行っているようだった。似たもの同士として一歩踏み越えれば彼とは随分近しくなれるような気がするのだが、武人と文人の間に一方的に作られた壁はやはりそうそう薄いものではないと、土方は感じている。




群狼ヒエラルキー




 繊細そうなカーペットをわしわしと踏んで、デスクの左から回り込む。どんな機嫌のときでも、たとえ「5」のときでも、勤務中にみだりに話し掛けるのはタブーだ。これも経験上学んだことだが、ついでに言うと勤務・休憩の区切りを決めるのは他ならぬ様自身である。
 まるで土方なんてその場に存在しないかのように、の動作は一定を保つ。横幅の広いデスクの右端に寄りかかり、机上の一点に集中する伏し目を見るのが土方は好きだった。いつもは眼鏡のレンズ越しにしか見えない彼の目も、睫毛も、この角度からだと直接見える。自分には決して向けられない、というか、彼が仕事に対してしか向けない目だ。しかしもしかしたら、もしかしたら何かの拍子に、彼がそういうチャンネルに切り替わって、そうしてこんな目で自分を見据えたら…自分の理性は耐えられるのだろうか?もしできなかったら、その場合は―とそこまで考えたところで我に返り、土方はすっかり度の増した自分の妄想癖にちょっと閉口した。
 不意にの指からペンが転げ落ち、机の木材とかち合って鉄琴のように華奢な音が弾ける。まさか如何わしい妄想を読み取られたか?と、土方がありもしない(いや彼の場合ありえないとも言い切れないが)焦りに駆られたのも束の間、ペンを手放したの右腕がゆらりと伸びて土方のスカーフを捕らえた。なんだ?と、冷静を装って聞こうとしたが、その前にの右腕がぐいと折れて土方が前のめりになる。それを受け止めるようにして、右に向けられたの顔と土方のそれが合わさってそのまま、土方が目を閉じる間もないまま唇がくっついた。
「……!」
 が自分からこうして距離を縮めてくることは普段も今までも、まったくと言っていいほどない。それに加えてなんと驚くなかれ、彼の方から舌まで絡めてきたのだ。さきほどの3.5の診断は誤りだったのか、恐ろしいほど積極的な彼に土方はすっかり狼狽していた。まさか本当に感づかれたのか?そしてその上での行動だとしたらこれは…まさか!?ムードに浸るのも忘れ土方は次の行動をひたすら考えた。―待て十四郎、今はまだ昼間―しかしこの機会逃すわけには―隅っこに持ち合わせた理性の引き留めを振り払い、今まさに土方がの体に手を掛けようと、した、その刹那だった。
「……ん、ぐ?」
「あー丁度よかった。包み紙なくて困ってたんだよ」
 口内にぐいっと何か押し込まれたと思ったら、はあっさり唇を離し早々と仕事を再開していた。ぽかんと口を開けたままの土方が、口の中をもごもごと確認してみる……すっかり味の消えたガムだった。は再びペンを取り、あの目に書類だけを映す。ほとんどゴミに近い存在を奥歯でぐに、と噛み潰すと、舌の上には悲しいほどの無味が広がった。


 人差し指と中指をくっつけて立てたら、煙草の合図だ。土方は懐から手持ちの煙草を取り出して、1本その間に挟む。が口に咥えたら、もちろん火を点ける。しかし彼は普段滅多に煙草は吸わず、時々一口吸いたくなるだけなので、煙を吸い込んで一呼吸したらすぐにまた、同じように指を立てて返してくる。そしてもちろん、それを土方が受け取って、残りは彼が吸う。この部屋には灰皿がないので、携帯灰皿は必須。

 日々そんな扱いを受けながらも、なんだかんだ今日も来てしまう。男・土方十四郎、自分のM要素を自覚中。しかしなんというか、やっぱり会いたいのだ。自分も毎日自由に時間が作れるような身ではないため、それは尚更だった。それは向こうもきっと、表面上はどうあれ、深いところでは同じだと思っているのだが。
「………(仮眠室、か?)」
 扉を開けたらそこはもぬけの殻だった。しかし平日の今日に彼が欠勤などするはずがない。土方の頭にはすぐにその部屋の存在が浮かび上がった。があまりにも詰め詰めの働き方をするので、家に帰らないならせめてここで休息を、と同じ階に彼専用の仮眠室が設けられたらしいのだ。利用しているのを見たことはないが。余談だが、にはちゃんと家がある。しかし1人暮らしの上、月に数えるほどしか帰らないためあってないようなもの。官僚の中ではそのほったらかしの家を手入れしている内縁の女性がいるらしい、という噂が流れているが本人によるとそのような事実はない。ただ、土方も見て確認したわけでは…ないのだけど。

 同じ階と言われてもこの広い庁舎では1フロア探し回るのも一苦労だ。しかし自分を甘やかすことに人間離れして無頓着な彼のためを考えたのであれば、それほど離れた位置ではないだろう。いつもは大臣室へ直行するので少しでも道を違えると迷ってしまいそうだが、予想通り仮眠室は大臣室の2、3部屋先にありすぐに見つかった。仮眠室と書かれた札の下に「使用中」のプレートが下がっている。裏返すと「空室」になるシステムだ。仮眠とはいえ恋人の寝室に進入するわけで、土方はドアの前でなんとなしに身なりを整え、馬鹿みたいに汗ばんでいる手の平をボトムに擦り付けてから、これまた馬鹿なほど慎重にノブを捻った。
 もちろん中は暗かったが、真っ暗ではなかった。天井の蛍光灯は消えていたが代わりに橙の電球が点いていて、薄暗い部屋全体をオレンジ色に染めていた。熟睡しないようにとの彼の配慮かもしれない。窓には暗幕のように黒いカーテンが貼り付いているが、その裾から漏れる明かりが今は昼時だと証明していた。廊下の明かりが開いたドアから狭い部屋に入り込み、その中心に佇む自分の影は膨らんだ布団に覆い被さっている。
 後ろ手で静かにドアを閉めると一段と室内が暗くなり、鳥目のように一瞬視界が塗りつぶされる。何度か瞬きを繰り返すうちに目が馴染みはじめ、慣れるとこの薄明かりでも十分見えることに気付いた。ここにきて臆する度胸のない自分の脚を奮い立たせ、土方は靴を脱いだ。ドアの前は玄関のようになっていて、狭いスペースを置いて畳の部屋全体が一段高くなっているのだ。隅にの靴も置いてあった。覚悟を決めたくせに、靴の擦れる音にすら土方はそわそわしている。2足の靴が並ぶと更に胸が高揚した。

「―、」
 息を呑む、とはまさにこのことだ。そろそろと枕元に歩み寄り、恋人の寝顔を覗き込んだ瞬間の土方のこと。仕事中の居眠りには居合わせたことがあるものの正直なところ、横になっている寝顔を見るのは初めてなのだ。当たり前だが眼鏡は外してある。よって彼の素顔を見るのもこれが初めてだった。閉じられた目、流れた前髪の間から露になる額、薄く開いた唇、自分を二の次にした不摂生な生活を知らないかのように健やかに上下している胸、それぞれが彼をひとまわり幼くして見せている。かさ張る上着は枕元にたたんであった。体はまっすぐ上を向いて、胸元のボタンはゆるく開け広げられて、掛け布団から出された両腕はみぞおちの上あたりに無防備に投げ出されている。傍らに膝を付き、手をつき、背を丸めた土方の心に去来するのはしかしそういう如何わしい感情ではなくて、そんなものよりももっとずっと、神聖で崇高なものに対する恍惚とか陶酔といった感情に近かった。この姿勢もまるで、従属の証のようだった。
「50年早い」
 土方が一方的に吸い込まれるようにして2人の距離が短くなり、ゼロになる寸前。薄暗がりの中で安らかに閉じられていた瞼が覚醒のように鋭敏に開かれ、土方の額にはその動きを制するようにして右手が添えられる。驚いた土方だったがしかしそれよりも、初めて見る至近距離の素顔に釘付けだった。人を見下したようなこの笑い方はいつも通りなのだろうが、彼愛用の眼鏡は細くてスマートな形をしている上、フレームが上半分しかないタイプのものなので、それが普段の彼の目を吊り上げて見せていたらしい。彼がまとう少し尖った雰囲気、その奥深くにまあるい本性が見え隠れする様に惹かれているのも事実だったが、外壁が取り払われてしまった今、残るのは愛くるしさだけでむしろ困惑してしまう。その変化に本人の自覚が伴わないこともまた土方を揺さぶった。それこそまさに女性のスッピンを見ているような。だから、その顔で、普段通りの俺様な態度を取られると非常に、色々とまずい。
「…が、度胸を買って5秒に縮めてやるよ」
 ちょっと、待ってくれ。と、に対してなのか自分に対してなのか分からないまま言おうとしたが、なにかに囚われたように動きの鈍い土方の首に、額をすべって耳を撫でて、髪をかき上げての腕が絡みつく。酔いそうに甘いシナリオに土方の頭はついて行かず、夢見心地のようにリアリティがない。が、考えている暇もない。濃厚な布擦れの音は、土方の理性が音を上げる声に似ていた。




 今日も大臣室は留守だった。ここ最近ではたまにあることだから、覚えのいい土方はすぐに理解する。つまりそれは、仮眠室にいるという、合図。仮眠室にいるということは、つまりそういう、合図。
「あんた…さんがどれだけの人か分かってるのか?」
 大臣室の扉を閉めた土方の背中に、それを突き刺すほど鋭利な声が飛んできた。―土方が振り向かないのは、振り向かなくても分かるからではなくて、振り向けないからだ。基本的に彼が土方に向ける視線はみな棘を含んでいたが、先ほどのそれは今までの中でも飛び抜けて戒めに満ちていた。
「あの人には、部外者に構ってる時間なんてないんだ。仮眠室もせっかく利用して下さったと思ったら…」
 土方は胸が痛んだ。本当だった。理由はまだ、考える時間が足りなすぎて、よく分からない。ただ、いつも芯を通してはきはきと喋るの声が、僅かにしかし明らかに震えていたのは事実だった。土方はなにも言えなかった。謝罪の言葉が喉に引っかかったが、どうにも確信が持てなくてそのまま飲み込んでしまう。目の前の豪勢なドアノブ、何度も握ってはいるがこんなにまじまじと見つめるのは初めてだった。
「ただでさえ忙しいこの時期に、何も知らない他所者が我が物面で出入りしてみろよ。まわりの士気もガタ落ちさ」
 あんたなら分かるだろう、と付け足した。もうすぐ年度末だ。
「もう、これ以上…あの人を引っ張り回さないでくれ」


「ぃいっ……、ってえな!急くな下手クソ!」
 の思いはしかと受け止めた土方だったが、あのまま帰るわけにもいかなかった。力のこもった彼の声に、今回だけはと何度も頭を下げる。身が入っていないのが直に伝わったのか、土方に組み敷かれたは顔をこれ以上ないほど歪め持ち上げられた脚でもって土方の肩を蹴る。土方は何呼吸か置いた後、冷静のようで覇気のない声を出した。
「…オメーが力、抜かねえから…だろ」
「えー、とはこんな事なかったんだけどなあ〜」
 土方が凍った。先までの葛藤は彼方へと吹っ飛び、瞬きも忘れて脳内を思考が駆け巡る。コンピュータのフリーズに似ていたが、それと違って内部はショートしそうなほど活発に動いていた。唇を噛んで笑いを堪えていたはだんだんと我慢できなくなりついに、もう限界、と盛大に噴出す。
「…ぶっ、あっははは!なんだその顔?ブッサイク〜」
 まだ呆然としている土方に、は笑いながら「冗談に決まってんじゃん」と告げた。なかなか笑いが収まらないに土方は腹が立ったようなほっとしたような、もうどうしたらいいのか分からない。は笑いで乱れた息を整えながら目尻の涙を拭って、はあ、と大きく息を吐いた。それでもまだ少し笑っている。
「なんか厭味でも言われたんだろ?でもまあ許してやってよ、あいつ俺のこと大好きだから」
 土方はもう、本当にどうしたらいいのかわからない。ひとまず、繋がったままこんなこと話す恋人というのもどうなんだろう、とは思った。肩に当てられていたの脚が今度は腰に巻きついて、土方を上半身ごと引き寄せる。体勢の変化に土方が少し顔をしかめると、それにも笑った。
「いいか?トシ。俺はな、俺自身の判断でこうしてんの。責任は負うし、嫌なら断る。後悔は絶対しない」
 土方の好きな、あの目だった。まさかこんな形で向けられることになろうとは…「まあ、お前がするかもしれないけど」と続けられると、土方は反射で「しねーよ」と答えていた。それにまたの顔が綻ぶ。結局どんな表情も、土方にとって魅力的なのだと気付く。
「発情期のガキとは違うんだよ。なめんじゃねえぞ」
 土方が頷くと、間髪いれず「分かったらさっさと動け」だそうだ。




 いつもは淀みなく滑るはずののペンが、今日はやけに乱雑だ。仕事は相変わらず、むしろいつもに増して山積みだが。常にピンと伸びているはずの背筋も歪んで、左に頬杖までついている。そこから少し距離を開けた正面に立って、書類を抱えたが心配そうに眉を下げていた。
さん、お休みになった方が…顔色悪いですよ」
「あー…うん、これ終わったらな」
「さっきからそう言って何度目ですか、もう無理しないで下さい」
「んー…分かってるよ」
さん!」
うるさい」
「……すみません」
 頬を支えていた左手を外に向けて払われると、には返す言葉がない。心配そうに何度も振り返りながら、最後に「失礼しました」と残して大臣室を出た。扉を閉め、短くも重い溜息を吐く。顔を引き締め直してスッと顔を上げたが、またすぐに眉間の皺が戻った。目の前に土方が立っていて、こちらへつかつかと歩いてくるのだから。
「―止めろ!さんは今体調が宜しくない」
「だから来た。どけ」
 腕を張って制するだったが書類片手では土方に叶うはずもなく、それはあっけなく振り払われた。土方は何の躊躇もなく扉を力任せに押し開け、ずんずんと直進する速度を緩めない。
「ああ…?トシ?邪魔すんな…仕事中だぞ」
 は虚ろな目で顔を上げた。思っていた以上に顔色が悪く、土方は口をへの字に曲げる。そのままずんずんといつものように左に回り込み、ペンを握ったままの右手首を掴んでぐんと引っ張った。もともとの軽さに加えて力のすっかり抜けていたの体は容易く傾き、それを土方の体が受け止めた。
「うごっ…こら、俺ァ病人だぞ」
「自覚あるなら仕事してんじゃねえよ」
 うっ、との声が詰まって喉が鳴った。その隙に土方がその体を左肩にひょいと背負い込む。驚いたは散々騒いで暴れたが、そのまま平然と歩き出した土方にがっちり抱えられては為す術がないし、暴れても消耗するだけだし、どうせすぐそこまでだと諦めて大人しくなった。
「なんで来たんだよ」
「あ?」
「お前だって仕事中だろ」
 今はまだ昼休みには早いとは分かっていた。自分からは土方の背中と脚しか見えないこの体勢で聞くのもどうかと思ったが。お陰で土方の声が聞きづらい。
「こうでもしねえと止められなかったんだろ?」
「…!ちが、」
 ボッ、と青白かった顔が急に赤くなる。やっぱりこの体勢でよかったかもしれない。再び暴れ出そうとすると土方はよいしょっと今一度を抱え直し、子供のように軽々と扱われてしまう。
「文句は布団の中で聞いてやる」
「…くせえよバカ」
 土方は少し心配していたが、扉を開けたらの姿はなかった。




「また来たのか」
 待ち伏せでもしているのか、というほど、庁舎に来ると必ずと言っていいほどに会う。それは行きだったり帰りだったり途中だったり(書類を持ってくる)するのだが、今回は行きだった。階段を一段ずつ上って、見えてきたのが仁王立ちした彼の足というわけだ。これを待ち伏せと言わずに何と言う。先日のこともあり少々気まずい土方は、会釈で済ませてその横を通り過ぎようとした。
 するとの腕が通せんぼうをする形で伸ばされる。咄嗟に足を止めたが、その手が持っている紙に気付いた。を目だけで一瞥したが、彼は真正面を向いたまま。土方は仕方なくそれを受け取ることにする。それは紙と言うよりカードで、白地に6桁の数字が手書きで記されていた。裏も見ると、彼の名刺だった。
「上役専用エレベーターの暗証番号だ」
 やはり視線は正面に向けたままそれだけ告げて、土方の返事を待たずには階段を下りて行ってしまう。2、3段下りたところで「せめて目障りにはならないでくれよ」と付け足した。1段ずつ遠くなっていく背中に土方は「どーも」と軽く頭を下げる。あまり大きくない声だったので聞こえなかったかと思ったが、は左手をひらりとかざし、下の階に消えて行った。



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2006/7/15  background ©ukihana