「飯食いに行ってくる」
 は席を立ち、外出用のコートをから受け取る。朝昼と抜いたため、今日初めての食事はほとんど夜だ。年度末のこの時期、春は近しといえどもまだ日が沈むのは早い。「今日はお1人ですか?」との問いに短く肯定で答える。
「では誰かお付の者を…」
「いーよ別にその辺だし、1人で行く」
 ついで手渡されたマフラーをゆるく首に掛ける。準備が整ったところでさっさと部屋を出ようとするのをが呼び止めた。
さん…最近ちょっと無用心ですよ」
「あ?」
「閣僚ともあろうお方が、そんなにふらふら街に出られては…」
「なにを今更」
 は不機嫌そうにマフラーの位置を少し直した。は一度目を伏せて口ごもりながら続ける。
「いえ、そうではなくて…土方副長ですとか、ご一緒の方がいらっしゃれば構わないのですが、最近お1人で出掛けられることが多いですし…ただでさえ情勢が不安定な時に、時間も遅いですし」
 今年度の総括と来年度の計画で役所はどこも慌しかったし、それに紛れて確かに周囲は穏やかではなかった。しかしもっともなことを改めて言われるというのは、の嫌いとすることのうちのひとつだ。
「じゃーどうしろっての。ちゃんと食えだの、出歩くなだのさあ」
「…す、すみません、出すぎた真似を…お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 上目で凄んでくるに(よりもの方が背が高い)すっかり萎縮してしまったは、眉をハの字にして深く1つ頭を下げ、を通り越して先に部屋を出た。はその小走りの背中を目で追うとドアが閉まりきる前に手を伸ばし、指先でちょいちょいと呼び止める。
「あー、、」
 おそるおそる、隙間から少しだけ顔を覗かせたに、は一転笑って見せた。
「ありがとな、感謝してる」
 自分で言っておいて、明日は矢でも降るんじゃないかと思った。多分も同じようなことを考えている。そういう顔をしていた(目を丸くして、ちょっと頬を染めて)
 実際に外は矢か何か降りそうな雲行きだが、それだけ今日の様はご機嫌がよろしいようで。



虎と苛政の猛くらべ



 手にした紙に書かれたとおりに歩みを進めてたどり着いたのは一軒の小ぢんまりとしたラーメン屋だった。食欲をそそる香りが店の外まで漏れている。土方との外出でこういった庶民の店にも馴染んでいたは何の躊躇もなく引き戸をガラガラと開けた。
 店内にはむわりと温かく、仕事帰りの男たちの影がぽつぽつと散らばっている。これから夕食時にかけて更に賑わうだろう。扉の前で突っ立っていたら、店員(店主だろうか)の女性が気付いて声を掛けてきた。
「あなたさんね」
 返事をすると目が合う。長い栗色の髪を後ろでひとつに束ねている。色白できれいな人だった。
「上の階で待ってるわ。そこの階段を使ってちょうだい。後で食事も持って行くから」
 飲食店らしいテキパキした喋りで一気にまくし立てられ、は礼もそこそこに言われたとおり奥の階段を上った。狭く薄暗くて、1歩踏むたびみしみしと軋んだ音がする。1階の熱が階段を伝って上昇しているらしく、どこまでも生温かい。
 2階にはいくつか部屋があったが1つだけ襖が開いていた。いかにも生活感あふれる雰囲気の作りなのでまるで不法侵入しているようで少し気後れしたが、ひょいと中を覗き込むと案の定、こたつの中で待ち合わせ相手が茶を啜っていた。ちゃっかり煎餅まで食べた形跡もある。
 男はこちらに気付くと「ああ」と声を掛け、の様子を一見してすぐに目を細めた。
「本当に1人で来るとは―呆れたな」
「そりゃお互い様だろ」
 は今更「お邪魔します」と一言断るとマフラーを取りコートを脱いで、置かれてあった座布団に腰を下ろしてこたつに足を突っ込む。あからさまに人の家とはいえ、個室に2人だけで緊張が解け鼻水が垂れそうになった。その向かいの男、桂は慣れたようにポットからお湯を注ぎ、の分の茶を煎れて出した。短く礼を言ってそれを一口啜り、は赤くなった鼻をこする。
「久しぶりだが元気そうだな」
「そっちこそ。こないだテレビ見たぜ」
「お前の方がよく映っているだろう」
「見てくれてんの?」
「たまにな」

 が例の『1日密着スペシャル』のダメ出しをしていたところに、先の女性がそばを運んできた。桂の紹介により、名前を幾松といった。「お前相変わらずそば好きだな」とこぼすに、「うちラーメン屋だけどサービスよ」と幾松。それから彼女と桂のことを少し話したあと、店が混んできたと言って下へ降りて行った。さらさらとなびく髪を見送った後、何食わぬ顔でそばを啜っている桂にがようようと詰め寄る。
「小太郎くんも隅に置けねーな。さすが貴公子」
「貴公子じゃない。桂だ」
「はいはい」
 その口癖もいい加減どうにかした方がいいんじゃねえの。と内心つっこみながら、も久々の食事に手をつけた。わざわざ口にしないが美味かった。それからしばらく、小さな和室にはひたすらズルズル麺を啜る音だけが響く。

 先に食べ終えた桂が箸を置いて会話を再開した。
「仕事は忙しいか」
 は残り少ないぞばをざるの上で一箇所に集めながら答える。
「まーね、それが普通だから最近は何とも思わねえけど」
「周囲に危険はないか?」
「んー別に、特には感じない」
「立派なボディガードも付いているようだしな」
 ず、と一口啜ったところで、は麺を咥えながら目だけちらりと桂を見遣る。恨めしそうにも後ろめたそうにも見えるその目線に、桂は両手のひらを掲げて「ああ、違うんだ」と言い直した。
「お前の考え方には昔から理解も同感もしている。しかし相変わらず攘夷の間では一級の売国夫扱いだぞ。…まあ、そういう輩は我々が抑えたいところなのだが」
 食べ終えたは隅に置いてあった蕎麦湯をつけ汁に混ぜた。白く濁った汁からゆるい湯気が沸く。
「ま、しゃーない。傍から見たら天人に媚び媚びしながら税金食い荒らしてるようにしか見えねえもんな。それで?」
 こんな所まで呼び出して何の用だ。と暗に含ませながら蕎麦湯に口を付ける。一口飲んだら味が薄かったので薬味を足した。向かいの桂はいよいよ本題とばかりに腕を組み、「そのことだが、」と神妙に切り出す。
「ここのところ特に活動が活発化している一派があるので気になってな」
「ふーん。年度末はどこもピリピリするもんだな」
「呑気なこと言ってる場合じゃないぞ。先々月の会合を狙ったのも多分同じ奴等だ」
「会合…あー、あれね」
 蕎麦湯を飲み飽きたのか、は空になった湯飲みを桂の方へ滑らせた。あれだけ危険な目にあったにもかかわらずちゃんと覚えているのかどうか、桂はいまいちはっきりしない反応にやきもきしながらも茶を注ぎ足す。
「もう少し危機感を持て。天人と間違って撃たれたと思っているんだろうが、お前個人を狙っていた可能性だって十分有り得るのだぞ」
 は湯飲みを手にしたまま停止した。
「マジでか」
「マジでだ」




 体温の上がった食後に夜の風は心地いい。北斗心軒から出た桂は目を細めた。今日の夕飯はラーメンにした。というか蕎麦を頼んだのに出てきたのはラーメンだった。しかし肌寒い季節に食べるラーメンはやはりなかなかうまい。先日会ったは蕎麦を気に入っていたようだったし、今度会うときはラーメンも食わせてやるか。いつになるか分からないが―
 さてと歩き出すと背中を呼び止められる。少々距離のあるところから声がしたようだったが、振り返ると見覚えのある顔が街灯に照らされて夜に浮かんでいた。
「ああ、君は確かの所の―君と言ったか」
 落ち着き払って答えたが、内心では「あいつ、機密情報管理はきちんとできているんだろうな」といぶかしんでいた。は名前を呼ばれたことに驚いている。しかし桂は「お気に入りの部下」としてから話を聞いたことがあり、写真を見せびらかしながらとても気分よさげに話すのでそれをよく覚えていた。警戒を強めたはしかし引き下がることなく、再び桂に迫る。
「なぜあんたがさんと関るんだ」
「―そうか、君はが就任してから引き抜かれたから、何も知らないのだな」
 上からものを言うような口ぶりが更に彼を刺激したらしい、の表情はますます険しくなる。会うのは初めてだがあまりにもから聞いた話そのままの印象なので、それが逆効果と分かっていても桂は笑った。
「まあ、こんな所で立ち話も何だ。ちょうど食後だし少し歩かないか?」

 返事を待たずに歩き出した桂だったが、渋々もついて歩いた。それを気配で感じ取った桂はいよいよおかしくて、気付かれないようにまた笑う。が気に入るのも解せるな―そのことも話してやろうかと思ったが、それよりも先に説明しなければならないことが沢山あった。
「重役はすべて天人に占領された中で、なぜだけ閣僚に加われたのか―事の経緯は君も知っているだろう」
 は声を出して答えはしなかったが、空気で肯定したのが桂には分かった。

 天人が江戸で幅を利かせるようになってから、政治の管轄にも首を突っ込むようになるまではそれほど時間がかからなかった。既に攘夷の粛清も進み邪魔になるものもいなかったし、いよいよ当時の閣僚までも引きずり下ろそうということになったのだ。ほとんどが天人同士の争いになったため一般には知られていないが、有力な一族の天人が地位を奪い合い、あらがおうとする役人は即座に消された。
 そうして当初の閣僚はすべて天人になる予定だった。抗争がひと段落する頃には候補もすべて決まり、あとは世に発表するだけとなった、その時期に。存在を忘れかけられていた攘夷志士の残党が再び立ち上がったのだ。どこから情報を手に入れたのか、閣僚候補を次々と襲った。未遂に終わったものが多かったが、蔵相候補だけは首を取られた。
 すっかり片付いたと思っていた攘夷志士の問題が再び取りざたされ、天人の間にも動揺が広がる。しかし閣僚の任命式は目前に迫っており、その混乱の中で手を挙げたが臨時の蔵相に成り上がったのだ。臨時ではあったものの働きぶりが評価され、そのまま現在に至っている―それがの聞かされているすべてだった。

「あの蔵相候補をやったのは我々だ。当時大蔵省の役人だったと通謀してな」
 少し後ろを歩いていたは堪らず桂に掴みかかった。桂も足を止める。ほとんど側近と言って差し支えないほどの自分よりもこんな男の方がより多くを知っているのに腹が立ったし、その内容も聞き流せるものではなかった。
「馬鹿を言うな!さんが志士などと―」
「まあ、にとって不本意であったかどうかは分からないが、それしか方法がなかったのも事実だ。民衆の生活に直結する財政まで天人に握られるわけには行かなかったのだろうな」
 左手に羽織の襟を掴んだまま、は返す言葉が見つからない。嘘だと吐き捨てることはできそうになかった。
「事情を知らない奴等からは裏切り者の呼び声高いが、私は随一の勇士だと思っている。幕吏の面を下げて我々に話を持ち掛けてくるときも、奴は斬られる覚悟だった」
 役人の制服を隠すこともせずにアジトへ駆け込み刀を向けられても動じない、「話がある。聞くだけ聞いてくれ」というの第一声と真剣な表情が桂の脳裏に浮かんだ。
「天人に囲まれて辛抱尽くしの毎日の中で、はじっと待っているんだ―江戸がひっくり返る日を」
 は左手を離し、ただ呆然と俯いた。今まで長い間連れ添ってきたとのやり取りが1つずつ思い起こされる。知らされなかったことよりも気付けなかったことに腹が立った。ぎゅうと力を込めて握られている拳に桂はの心情を察し、その「彼らしさ」にまた少し表情を崩す―の自慢話はまた今度、機会があったら話してやることにしよう。自分とほぼ同じ位置にある肩に手をやって再び歩き出した。
「それにしても我が身を省みない性格は相変わらずらしいな。くれぐれも面倒見てやってくれ」
 遠ざかっていく長髪の後姿を、はもう追わなかった。




「(あれー…桂の手紙どこやったかな)」
 は頭をかきながら引き出しの中を探る。忙しい職務中ではあったが、どんな重要書類よりも優先しなければならない手紙が見当たらないとくれば捜索せざるを得なかった。しかしいつも決まって仕舞っている鍵付きの引き出しには、一番最近受け取った一通だけが見当たらない。先日のラーメン屋の地図も入っていたやつだ。しかし腑抜けな自分もそこまで無用心ではない、部屋に入れる人間も限られているし―
「まさか、…?」
 直感でそう思い立ったとき、といえど冷や汗が出そうになった。桂はああ見えてお喋りだ(相手を選ぶが)厄介なことにならなければいいが、多分なるんじゃないかな―はああ、と深く溜息をついて机に肘を付いた両手で頭を抱える。情報管理体勢を今後改めることにしよう、と決心し捜索を打ち切る。引き出しを閉め鍵をかけ、さあ仕事、という所で扉が開いた。
「聞きてえことがある」
 まったくどいつもこいつも落ち着いて仕事くらいさせねえのか、とはあからさまに不機嫌なオーラを出して見せた。いつもはこれで怯む客―土方だったが、今日は構わず一直線にの正面まで足を進めてデスクのまん前でピタリと止まる。椅子に踏ん反りがえって足と腕を組むを一瞥すると隊服の胸ポケットに右手を突っ込み、なにか束を取り出してそれをデスクにぶちまけた。名詞よりもふた回りくらい大きく、枚数にすると20枚ほどだろうか。きちんと束ねられていなかったそれは書類の広がるデスクの上でバラバラと音を立てて散らばり、何枚かは絨毯に滑り落ちた。
「桂の尾行班が撮ってきた」
 うち1枚がの腿の上に落ちた。彼は裏向きに落ちてきたそれを拾い上げ、裏返して見てから目を土方に向ける。直立したままこちらを見下ろしているのはひどく冷たいの武装警察の目だった。口を真一文字に結んで次の言葉を待っている。は最初に会ったときのことを思い出し、再び手元に視線を戻すと鼻でフンと笑った。
「公務員が盗撮とは感心しねえな」
 指先でピンと弾かれた写真はひらりと舞ってそっと絨毯に落ちる。表向きのそれには、桂と肩を並べて「北斗心軒」から出るが写っていた。



苛政は虎よりも猛しって、あんまり知られてないかな
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2006/8/22  background ©hemitonium.