(うわーやっべ…入りにく〜…)
 春。入学式から早数日、新入生ガイダンスにさっそく遅刻。指定された教室のドアの隙間から覗き見た室内はやたら静かで大変入りにくい。教授の声が漏れる廊下でしばしおろおろ、もう帰ろうかとも思ったがそこは考え直し、思い切ってドアを押し中に入る。
 教団上の教授はこちらをちらりと睨んでわざとらしくひとつ咳払いをした。それに軽く頭を下げながら、大人数の視線が痛い。ちょ、そんな見るなよ。こんな形の第一印象で顔覚えられちゃたまったもんじゃない、早いとこ席について紛れようとするも、学部内の新入生が一堂に会しているとあっては大きめの教室でもなかなかのぎゅうぎゅう詰めだ。しかも大抵席っていうのは端から埋まっていくもので、真ん中がちょこっと空いてはいても机が繋がっていては今更とても入れない。
 ああ、まいった、もう帰ればよかった…あまりの居た堪れなさに萎縮していると、一際目立って背の高い男に目が留まった。見ると混み合った教室の中で彼の両隣だけは席が空いていて更に目立っている。なにか事情がありそうなのは自分にも分かったけれど、ずっとドアの前に突っ立っているわけにもいかないので彼に声を掛けることにした。
「すいません…あの、ここいいっすか?」
「ああ、どうぞ」



PREINIT. #1



「かつろ〜ノート見して〜」
「…起こしてやったのに書いてないのか?」
「起きてるのと書いてるのは別。なー頼む!な!」
 本日最後の授業を終えて、荷物を片付けようとしている克朗に両手を合わせて詰め寄る。呆れ混じりの溜息が漏れたらもう一押しだ。合わせた両手をさらに強くこすり合わせ、額の前で高く掲げる。
「仕方ないな…」
「サーンキュ!あーよかった〜克朗みたいな友達を持って俺は幸せだよ」
「よく言うな」
「マジですよー」
 ああ、まただ。
 先の、克朗みたいな友達を持って―という言い草は、俺の口癖みたいなもの(まあそれだけ世話になってるって事なんだけど。)そしてその言葉を出すと彼はいつも、ちょっと複雑そうな顔で笑う。普段から愛想がいいし、人前じゃいつも柔らかい顔をしてるけど、入学してから今までそれなりに長い期間一緒に居て、俺にはその笑い方の違いが分かるようになってきた。




 静かな新入生ガイダンス中。隣の男は背筋をピンと伸ばして説明を聞いている。服も落ち着いた色のものを着ていて、身長に限らずとても大人びた人間だというのが会って数分の自分にもひしひしと伝わってきた。話しかけやすいタイプではないのも分かっていたが、これも何かの縁と思い、勇気を出して小声で話し掛けてみる。
「あのー…」
「はい?」
 さっき声を掛けたときも思ったが、本当に人がよさそうなやつ。髪の色は茶色がかっているけど地毛だろう。友達も多そうなのに、1人で座っているのが尚更不思議だった。
「ここ、後から誰か来るんすか?」
 反対側の空いた席を見て聞いてみると、彼は人当たりのよさそうな顔を一度陰らせて言葉を濁した。
「いや、別に…そういうわけじゃ」
「? じゃあなんでここだけ空いてんすかね?」
「あー…さあ?」
 でかいナリに似合わず、きょとんと可愛い顔して首かしげるものだから、一時陰らせた表情が少し気になりつつも吹き出してしまった。
「―っはは、あんた面白いな」
「そうか?」
「うん、見た目すげー堅物かと思ったし」
 勇気出してよかった〜と手を当てた胸を撫で下ろすと、大袈裟だなと苦笑いしている。そこで自己紹介がまだだったことに気付き、あ、そうそう、と続けた。
「俺、ってんだ、よろしく。都内からなんだけど」
「渋沢克朗だ。俺も都内から」
「えっマジ?どこ高?」
「武蔵森なんだが…」
「あーあそこ!部活とかめっちゃ気合入ってるとこだろ?」
「ああ、そうかもな」
「克朗…あ、克朗でいい?」
「あ…ああ、構わないが」
「ん。克朗も何か部活やってたん?ガタイいいもんなあ。ちょっと焼けてるし」
「ああ…俺は… 「そこ!静かにしなさい!」
 また彼―克朗が、少し表情を曇らせたような気がした。しかしそれを確かめるより先に教壇上から指をさされてしまう。「やべっ」と咄嗟に頭を下げて、その前に立てたガイダンス資料の影に隠れた。今更遅いけど。入るときに続いて、こりゃばっちり目え付けられたな…でも違う学科の教授だしまあいっか。なんて。隣を見たら克朗も小さく顔を伏せていて、目が合うとお互い苦笑い。会話も一時中断となった。


 俺は高校まで野球一本で、他のスポーツなんて興味なかった。でもプロでやっていけるほど世の中甘くなくて、そして俺の才能も足りなくて。3年次のチームも早々と甲子園の夢破れ、特筆すべき長所ってもんがなかった俺はスポーツ推薦もAOもなく一般入試でここまで来た。この学校に決めたのは、家がそれなりに近いことと、志望学科があったことと、卒業後のこともほんのちょっと考えて。野球部の中じゃ勉強は結構できる方だった…とは言っても、野球バカだらけの中での話。夏以降は引退時の涙も忘れて、クリスマスも正月もなく、必死になって勉強した。だから年末年始の高校サッカーなんて目もくれなかった。元々サッカー自体そんなに見なかったし…そんなわけで、今年の高校サッカー選手権注目の的・天才GK渋沢克朗の存在なんて、知る由もなかったわけだ。


「ふー、あの教授話長かったな〜」
 時間を少し押してガイダンスが終了すると、あんなに静かだった教室もそれらしいざわめきで溢れる。硬い椅子に座りっぱなしで凝り凝りになった背筋をうーんと大きく伸ばした。
「はは、途中寝てたけど大丈夫か?」
「えー?だってたいした事言ってないだろ?」
「いや、履修登録時間の変更とか色々言ってたぞ」
「は?え、なに!?」
「えーとだな…」
 克朗が一度閉じたガイダンス資料をぺらぺらとめくる。盗み見ると随所に几帳面な字で書き込みが加えられていた。俺のといえば、貰ったままの美しい姿だ。名前すら書いていない。
「ああ、これこれ」
「あーっ見して見して」
「どうぞ」
「わりーね」
 きれいな筆跡に心底感心しながら、自分の荒っぽい字でそれを写し取る。そうしているうちにまわりは次々と席を立って行くわけだが、その視線がやたらと気になる。なんだ、遅刻居眠りがそんなに悪いのか、なんて。その時の俺はまだ知らなかったから。
 重要そうなところを教えてもらい、要所を一通り写し終えて資料を返す。
「あー助かった!サンキュ!」
「いえいえ」
 がさがさと荷物を片付けながら、途中で途切れてしまった会話を思い出した。深追いするのは少々はばかられたが、あのまま濁してしまう方が気分が悪かったので聞いてみることにする。
「あ、で、さっきの続きだけど。部活、なにかやってたん?」
「…ああ…まあ一応、サッカー、をな」
「え!武蔵森ってサッカー超名門じゃねえっけ?」
「うーん、まあ…そういうはなにか部活やってなかったのか?」
 武蔵森のサッカー部だなんて、危惧していた事情はなさそうに思えた。それでもまた言葉を濁すし、すぐに話題を変えたがるし、やっぱり何かおかしいなあとは感じたのだけど。その時の俺は武蔵森が名門ってことは知っていても、選手権で優勝したなんて知らなかったから、特に話題も広げられなくて。初対面だし変にこだわるのも良くないと思ったし。
「あ、俺?俺は野球!まあ全然ダメだったけど…」
「そうなのか?」
「んーだから引退してから勉強めっちゃ苦労した。ここ入れたのも超奇跡って感じ!」
「ははは」
「そういう克朗は余裕っぽいよな〜」
「え?いや、そんなことないぞ。も一般受験だろ?」
「うん、俺推薦とか無理だしー…あ、俺でいいよ。苗字って慣れてなくてさ」
 野球部では全員名前かあだ名で呼び合っていたから、と言われるとなんだかくすぐったかった。克朗は少し驚いたように目をぱちくりさせてから「そうか、分かった」と返す。礼儀正しそうな彼のことだから、逆に名前の方が呼び慣れていないのかもしれないと思った。資料と筆記用具を鞄に仕舞い終えると、一緒に中に放り込んであった携帯に目がとまる。
「あ、なあなあ、番号交代しよ!」
 進学祝いに親に買ってもらった最新機種は傷ひとつないつるつるの手触りだ。色も入荷待ちでやっと手に入った人気色。ただ黒いのではなく僅かに青みがかっているのがいい。それを片手に振り返ると、克朗も快諾して自分の携帯を取り出した。さっそく赤外線で送受信。
「おー、記念すべき大学の友達第1号!」
「俺もだ」
「大学のグループも作らなきゃな〜」
 新しく設定した『大学』グループに渋沢克朗を登録して、内容も確認してオッケー、となったところで視線に気付く。
「―あ、!」
 目が合って声を上げると、少し気まずそうに「おう」と返した。は同じ高校の親友だ。部活は違うけど、3年のときはクラスが一緒で席も近かった。とても勉強ができる奴だったから、志望校が同じ仲間でそのへん色々お世話になった。あいつは一次で先に受かったからその後は付きっきりで勉強見てくれて、俺が二次でやっと合格できた時には本当に喜んでくれたっけなあ。
「何だよお前、ガイダンスなんて出ねえって言ってたじゃん!―あ、じゃあ克朗またな!」
「ああ」

 手を振って克朗と別れて、教室を出た廊下をと並んで歩きながら、キャンパスライフを順調に滑り出した俺は機嫌よく饒舌に話す。外は少し寒いけど、足取りは軽い。
「ガイダンスの時教室にいたのか?全然気付かなかった…てかお前ちゃんと話聞いてた?結構大事なこと言ってたっぽいぜ〜俺メモ完璧だから見せてやろーか?ってか俺のも写しなんだけど〜」
「…お前さ、」
「ん?」
「渋沢と、友達…なのか?」
「え、渋沢?ああ、克朗?まぁさっき会ったばっかなんだけど…大学の友達第1号!てかお前克朗のこと知ってんの?」
 会った時からずっと、何か引っ掛かったような顔をしていたがとうとう、ばっと顔を上げた。苛立ったような声で俺に怒鳴りつける。なんで怒られるのか、俺には分からなかった。
「俺だけじゃなくてこの学校の奴らはみんな知ってるっつうの!お前以外!」
「…えっ、は?何?克朗って有名人なの?」
「有名も何も…校門に報道陣殺到してんの見なかったのかよ」
「あ…俺遅れて来たから…え?克朗って実は芸能人とか?」
 確かに凡人とは違うオーラ出てたけど。あとカメラマンも確かにちょっといた気がする。けどあれ、記念撮影とかの人かと思って…もたもたと考えを廻らせる俺に、はいよいよ苛立ちを露にする。
「ちっげえよ!キーパーだよゴールキーパー!!」
「ゴールキーパー……ああ!サッカー!それで名門武蔵森か!」
「やっと分かったか…名門も名門だぞ。お前全然見てなかったから知らねーんだろうけど、今年の選手権、武蔵森は優勝したんだぜ」
「ほおお…そりゃすごい…」
 地区予選の2試合目で敗退した自分とは雲泥の差だ。
「で、渋沢はその史上最強の武蔵森の守護神でありキャプテンであり、今大会最強のGKだったってわけ」
「えええ、そんな大物…なんで知らないの俺…」
「まあ、お前正月には完全なガリ勉化してたからな…無理ねえか」
「だ、だよな…」
 はー、とお互いひと段落。の苛立ちも、俺の動揺も、落ち着いてきたところで棟を出る。
「…でもさ、そんなにすげー選手なら、なんでプロにならなかったんだろ?」
「さー。最近は大学サッカーも盛り上がってるし、引退後の事とかも考えてるんじゃねえの?」
「ああ、それめっちゃ克朗らしいかも…」
 会って数時間で分かったような口きくのもなんだけどさ。
「ま、あんな大物に近づく奴なんてそうそういねぇから、お前かなり目立ってたぞ」
「はっ…感じる視線はそういう事だったのか…!!」
「だろうな」
「で、でも克朗、なんで自分から言わなかったんだろ…部活の話もしたのに」
「ふーん?まあ見せびらかすような性格じゃねえだろうしな」


 何日か後、聴講の教室で克朗に再会した。
、おはよう」
「あっ、ああ!か…おはよ」
「? もこの講義取るのか?」
「うん、その…つもり」
「…どうした?」
「いや…」
 やっぱり見られてるなあ…。周囲の視線を感じて俺はぎこちなく笑う。「隣いいか?」と聞かれたので、おずおずを席をすすめた。授業開始まではまだ少し時間がある。横でノートや筆記用具を取り出し机の上に並べている克朗に、俺は思い切って言い出した。
「…なあ、克朗…ってさ、」
「ん?」
「すげー選手なんだろ。サッカーの」
「……誰かから聞いたのか?」
「うん、俺高校サッカーとか見てなくて、全然知らなくてさ…なんかゴメン、いきなり馴れ馴れしくして。ほんとに知らなかったんだ」
「いや、俺は別に…」
「ううん、ほんと、ごめ…「いや、違うんだ!」
 謝り倒す俺を、克朗が遮った。いつも穏やかな話し振りだった彼が初めて発した鋭い声に思わず黙る。本人も自分で言って少しびっくりしたようで、ばつが悪そうに一言「すまない」と小さく漏らしてから、もう一度きちんと俺に向き合った。
「俺は普通の学生でいたいんだ」
「……」
「まわりは俺のこと敬遠して近づかないだろ?でも俺はサッカー選手じゃなくて、学生としてここに来たから。推薦も蹴って、一般で受けたし…だからが普通に話しかけてくれた時、嬉しかった」
「…うん」
「俺のこと知らないんだなっていうのはすぐ分かった。けど知られたらまた敬遠されそうで自分からは言えなかった。すまない」
「い、いやいや、謝るなよ」
「悪い…俺はずるいから」
「そんなことねーって!―よし、んじゃこれからは天才キーパーだって何だって気い使わねーぞ俺は!」
「ありがとう」
 そん時の笑顔が、今思っても一番自然で柔らかかったと思う。




「はい克朗!ほんとサンキュ!」
 休み時間のうちに写し終わったノートを返す。
「ああ、速かったな」
「うん。もう写すのプロだから俺」
「もっと別の部分を極めたらどうだ」
「はは…いや、俺がこうして授業について行けるのも克朗という友達がいてこそだよ」
「またそうやって…」
 と言って、また少し影を作って笑う…よし、今回こそは言ってやろう。
「あのなあっ」
 椅子から立ち上がって、小さめの丸テーブルの向かいに座っていた克朗に詰め寄る。急な事に少しびっくりした顔してる…そういえば、長身の克朗を見下ろすのなんて滅多にないことだ。
「俺は、ノート借りたりとか、分かんねぇこと教えてもらったりとか、そういうののためにおまえと一緒にいるわけじゃねーからな!」
「…え?」
「そりゃ毎回世話になってっけど…でもそのためじゃなくて、おまえと一緒にいて楽しいから!だからそうしてんの!変に深読みして、俺の友情見くびってんじゃねーぞ!!」
「………」
「分かったか!」
「…、はは…っああ、分かった。ごめんな、ありがとう」
「よし」
 あ、あの時と同じ笑い方だ。


 けれど、元々人目を引いてる俺等が、ラウンジで、あんな大声で、しかもあんな事を口走ってしまって。色とりどりの尾びれが付いた根も葉もない噂が校内中に広まったのは言うまでもない。けどその話を耳にする度に克朗は申し訳ない顔をするから、今度は目立たないように怒鳴ってやろうと思っている。



  NEXT→

2005/1/29  background ©CAPSULE BABY PHOTO