「あー……終わらない…」
「そんなこと言ってるから終わらないんだぞ」
「……はい」
小さめのベランダに続く大きな窓の向こうにはすっかり秋めいた町並みが続き、少し冷たそうな風がぴゅうと鳴ってカタカタ窓を震わせた。
現在秋休み
しかし勉学に忙しい学生諸君は、秋の行楽を楽しむ余裕もなく。家主である渋沢の横、やってもやっても終わらない和訳には頭を抱えていた。
PREINIT.#4
「………いてっ」
手元に集中している克朗を横目に、テーブルの片隅に置かれたテレビのリモコン。そーっと伸ばしたその手をぺしっと叩かれる。手を擦りつつ恐る恐る目線を上げると、呆れ顔で溜息を吐かれた。いや、仕方ないだろう。3時間以上も紙面と睨めっこなんて、自分の集中力の限界を超えている。
「…少し休むか」
「うん!」
その気持ちを察したのか、眼鏡を外した克朗が腰を上げた。静かに折り畳まれた品のいいそれが収められた先は、このあいだ俺があげた眼鏡ケースだ。2ヶ月遅れの誕生日プレゼントに散々悩んだ挙句俺の頭に浮かんだのは、いつも克朗が使っている、眼鏡屋でもらったままの味気ない眼鏡ケースだったわけで。それで品が定まったはいいものの、具体的にどこでどんなのを買うかでもかなり迷って、店を何軒もハシゴした末にやっと決めたものだ。しかし今こうして見ても我ながら中々いいセンスしてるんじゃないかと思う。なんか、彼にしっくりくる感じ。かく言う自分も、貰い物のペンケースはありがたく使わせてもらっている。
「…昼ドラばっか」
克朗がキッチンに下がっている隙にテレビのスイッチを入れてみたものの、今日と言う日は世間一般で言うところの平日、その上まだ日の高い時間帯では主婦向けの番組ばかり。適当にボタンを押した末、ローカルのテレビ通販に落ち着いた。見る意味はあまりないが、音があるだけマシなんじゃないかと思う。
「…ちょっとどけてくれ」
「あ、はいはい」
トレーにカップを2つ乗せてきた克朗が、散らかったテーブルの上を片付けるよう促す。色も形も違う2つのカップは元々克朗が持っていたものだけど、ずんぐりした緑の方は既に俺専用みたいなものだ。コーヒーの褐色がほとんど白になるほどまで牛乳が入れてある。いつものこと。
「いただきまーす」
カフェインで少し目を覚ませ、とか言われるのにいい加減な返事をして、カップに口を付ける。甘さも丁度いい。それにしても舌から喉までじんわり温められた上、ほわほわ立ち上る湯気を見ていると、目が覚めるどころかむしろ眠くなりそうだ。一呼吸置いてカップを机に戻すと、不意に克朗が声を上げた。
「あ、」
「?」
顔を上げるとこっちを見ている。なに、と聞こうとするより早く、腰を上げ膝を付いて四つん這いの形になった。そのままこっちに近付いてくる。
「、ちょっと…」
「え、え?な、に…」
詰められる距離に思わず俺は、座ったまま後退りした。後ろにあったラックに背中がぶつかって、上に乗っていたものが若干揺れる音がする。
「か、克朗?あ、えっと…」
「…すなまい」
それでも克朗は近付いてきて、2人の間に陰が落ちるほど距離が近付いた。予測と期待が複雑に入り混じって、思考が展開について行けない。薄暗い顔を直視できなくて、彼の右腕がするっと伸びた瞬間俺は堪らず目と唇をぎゅ、と閉じる。閉じこもった暗闇の中で、遠くのテレビの声と、服の布擦れの音がいやに大きく響いた。
「あ、あったあった!」
「………え?」
遠くなった克朗のけろっとした声に目を開けると、彼は元の位置に座って手元の本の文面を指で追っている。ぽかんとしてそれを呆然と見つめる俺に、開いた本を裏返して見せた。
「ほら、この表現ここに載ってる」
「…は?……え?」
「いや、どこかで見覚えあると思ったんだ。この本だったのか」
自分のノートと課題とを改めて見比べてひとりスッキリした表情の克朗に後ろを振り返ると、ラックの中段は本棚になっていて、ギッシリ詰まっているその右寄りの一部から一冊抜き取った跡があった。
つまり、つまりだ。
何かに気付いた様子の克朗が見ていたのは俺じゃなくて、本であって。近付いてきて手を伸ばしたのも、俺にじゃなくて、本にであって。勝手な勘違いをした俺は、勝手な期待に目なんか瞑ってしまったわけで。
「……かえる」
「?」
「帰る!」
「は?なんだ、…どうした?」
今度は克朗がぽかんとする番だった。それでも俺はもうここに居られない。傍らに転がった鞄を引っ掴んで、自分の荷物を乱暴にぶっ込む。忘れ物をしてやいないか聊か気になったが、確認する余裕はなかった。呼び止める克朗を振り切り、スニーカーを引っ掛け、かかとを踏み潰したままドアを押し開けると廊下を走った。
「(早く…!)」
エレベーターの前まで辿り着くと、カチカチカチ、と落ち着きなく、既に点灯している▼ボタンを連打する。上の方でオレンジ色に染まる数字が6、5…とひとつずつ左にずれ、ポーンと鳴ってようやくドアが滑った。割り込むように滑り込んで、すぐに1階のボタンを押す。
「!」
「!」
姿は見えないが声が聞こえて咄嗟に閉ボタンを押す。狭まるドアの隙間、隅の方に克朗の顔が半分くらい、ちらっと見えたけど、あっという間にドアが遮って、声もすぐに聞こえなくなった。
垂直移動の圧力の中、狭い直方体にたったひとり、最大ボリュームの耳鳴りと、鼓膜を震わす鼓動が煩い。エレベーターは3、2階では止まることなく直接1階に到着し、ポーン、とドアが開くと、マンションの利用者らしい青年が女連れで立っていた。その横を擦り抜け、エントランスの自動ドアを潜り抜け、ドアマットを踏んだ途端に乾いた風が全身を包む。初めて飲み残してしまった、まだ暖かいであろう、テーブルの上のコーヒーがちらと頭を過ぎった。
馬鹿みたい、馬鹿みたい、馬鹿みたいだ、馬鹿げてる。
最寄り駅まで歩く途中、頭の中でそればかり繰り返していた。ふと思い出して鞄を探り、携帯を取り出す。忘れたかと思って一瞬焦ったがちゃんと入っていた。パカっと開いて切っていた電源を入れると、黒い画面がぱっと色づく。邪魔が入らないようにって、部屋に上がる時はいつも切ってる。馬鹿馬鹿しい。
留守電に伝言が入っていることに気付いたのですぐに確認すると、だった。再生してみると、電波があまりよくないのか、声が小さいのか、何を言っているのかよく分からないままプツリと切れる。何回か聞いてみたがやっぱり分からなかった、どうやら元気がないらしい。着信はちょうど1時間前、心配になって掛け直してみると、4回目のコールが途切れる。
「もしもし?」
「あー……なんだよお前、何してんだよ!」
「わり、ちょっと…地下鉄、乗ってた」
「あ、そ………」
「何かあった?」
自分の声も十分沈んでいるはずなのだが、それに気付かない程にの声には覇気がなかった。彼らしくない。
「いや、あのー、なんつーか………フラれた」
「…は?」
突然の、予想外の言葉に驚いたがつまり、紡ぎ出される言葉の意味を繋げると。昨日、彼の誕生日に会った際に一方的に別れを切り出されたんだそうだ。必死に食い下がってもまるで相手にされず、そこで別れたきり連絡も取れなくなって。とんだ誕生日プレゼントに一晩寝込んで、先程やっと起きて俺に縋ってきたらしい。
「俺もう駄目だ…年末プラン丸潰れ」
「…うん」
はたて続く冬イベントの資金調達のためにバイトを頑張っていたし、俺から見る限りではずっと順調そうだったのだけど…何にせよ、今は詳しい経緯を聞ける状態ではない。
「、お前は、どーなのよ…この冬」
「俺?あー…俺は、うん。なんか、お寒い感じ」
「そ、か」
仲間だなーと乾いた自嘲、漏らした短い息がマイクにぶつかってボッ、と音がした。俺は何も返せないまま、無言の通話が続く。足はもうすぐ駅の入口に差し掛かりそうだった。一旦切ろうかと思ったところで、急に語気を強めたが切り出す。
「よし…、遊ぶか」
「―は?」
「他大の飲みサーなんだけど、地元のツテあってさ」
「あ…そう」
日時は明後日、秋休み最終日。会場はB駅西口のどこだか、今のとこ人数は男何人女何人…トントン拍子で進んでいく話に、俺はただ曖昧な相槌を打っているだけだった。
「そんな感じらしいんだけど。お前もよかったら来いよ」
「…わかっ、た。都合、ついたら…行くかも」
「おー、待ってる」
集合場所とかはメールするしー、と、強引に明るく振舞ってから通話が切られる。俺は通話の切れた待ち受け画面を暫く見つめてから、携帯をポケットにねじ込み券売機へ歩いた。
次の日は朝からバイトで、夕方に上がってから携帯を開いたら伝言とメールが数件。ひとつは学科の友達だったけど、他は全部克朗からだった。結局、聞かないし見なかった。そのまま削除することも考えたけど、できなかった。頭から振り払うようにメールくれた友達と飯食って、夜は家で借り物の映画を見て、時間を持て余す前に風呂に入ってすぐに寝た。携帯は終始サイレントモード、いつ鳴ったか知れない。
*
「お、!来たか〜」
ネオンが瞬き始めた副都心、待ち合わせで賑わう銅像前で人の輪に紛れたが手を振って俺を呼ぶ。
結局、来てしまった。
頭を下げつつ、思ったよりずっと大規模な集団に歩み寄る。隣につけたが背中に手を回し、同高で大学も一緒の、と紹介すると、いかにも軽くて薄くて安っぽい盛り上がりを見せた。そのままの流れでぞろぞろと移動が始まる。見知らぬ背中の後にくっ付いて、ガムと吸殻がへばり付いた歩道を伏目がちに歩いていると、隣に来た女の子が話し掛けて来た。いかにも今風の子で、よく笑う。俺もつられて笑ったかもしれない。
ビル街をすり抜ける木枯らしが、俺の左胸を擦ってからからの音楽を奏でた。
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2005/12/21 background ©hemitonium.