携帯が歌う。あれ、なんだっけ、いま流行の歌手が歌ってるやつ。よくCMで流れてるやつ…やっぱり横文字は苦手だ。特に興味がないから尚更。包まった布団の中から腕を出して、音がする方を探る。
「…おはよ」
『おっはよー、ってもうそんな時間じゃないしー!』
「あーごめん、いま起きた」
『またサボり〜?』
「んー、自主休暇」
『あっは!うけるー』
起き上がって時計を見ると2時過ぎ。少し急がないとバイトに間に合わないかも。起こしてもらえてよかった。
「なんか用?」
『あ、そそ、きょう夜ひま?』
「えー…と…バイトの後なら」
『ミワの誕生日パーティやるの!よかったらクンも来てー』
つい一昨日にも集まって飲んだばかりだ。だいたい7時頃に西口集合で、クーポン割引の居酒屋チェーン店に2時間ほど居座って、その後は適当に空いてる店に入ってまた2時間くらい。そしたらカラオケかボーリングか、誰かの部屋に転がり込んで飲み直し。決まりきった流れに沿って、聞き飽きたネタに笑って、時間を埋め合うだけの時間をなぞる。
で、ミワって誰だっけ?髪の短い子か?いや、あれはマキちゃんだ。あ、じゃその3人組残り2人のどっちかだな多分。片っぽはテニスやってて、もう片っぽはえーと…なんだっけ、音楽好きとかだった気がする。
「へーそうなんだ…は行くって?」
『んー行けたら行くみたいなことゆってた』
片手に電話を持ちながら部屋着からジーンズに履き替えた。上はこのまま1枚羽織ればいいか。クローゼットから厚手のジャケットを引っ張り出して、合う色のストールを巻きつける。
「そっか、じゃ俺も行けそうだったら連絡するよ」
『おっけー。じゃね!』
「ん、連絡ありがと」
通話を切った携帯とテーブルの上の財布をポケットに仕舞い込んで、腕時計をつけて…やべ、ひでー寝ぐせ。時計をもう一度見てから急ぎ足で1階の洗面所へ。ヒゲも剃ろう。
PREINIT.#5
最近まともに、学校に行っていないのだ。
に誘われた飲み会に参加して以来、バイトか遊ぶか飲むか寝るかの生活をしている。バイトは慣れてきたのもあって多めに入れてもらえるようになったし、飲み会で知り合いがずいぶん増えたので遊び相手には困らない。共働きの両親はなにも気づいていないようだった。
まわりに迷惑はかけたくないから、グループ作業のあるゼミの授業には出ている。他は本当に気まぐれ。ただ克朗と同じ授業にはまったく出ていない。
会いたくないと言うと、本当は少し違うんだ。
会いたくなくない。でも、会ってはいけない。
今更どうにも言い訳しようがないしもう連絡も来なくなっているので、むしろ会いたいと思ったって会えるとも限れない。そんなあれこれを考えたくない。だから、会いたくない、ということで。
*
バイト上がりで遅れて参加したので、誕生日会はすでにすっかり盛り上がっていた。店のサービスだろうか、火の消えたロウソクの立てられたケーキがテーブルに置かれている。その前にいるのがきっと、えー…ミワちゃん。あの子だったのか。テニスじゃない方だな。
軽い乾杯の後、ちょうどよく空いていた隅っこの席をキープした俺はグラスと箸を置いてそのまま壁にもたれかかる。すると少し離れたところに座っていた女子がつつつと寄ってきた。今朝(正確には昼)電話を貰った子だ。
「クン元気なあ〜い」
「…そう?そんなことないよ」
よいしょと背を屈めて箸を取り、近くの皿に残っている揚げ物を1つつまんだ。しょっぱい。泡がすっかり消えているビールも1口。ぬるい。
「うそー。疲れてる?」
「あーうん、バイト後だからさ」
彼女がビンを手に取るので、仕方なくもう3口ほど飲んで酌を受ける。
「だよねー、おつかれさま!マッサージしたげる〜」
「あ・ああ、ありがと」
そう言って、きらびやかな爪をまとった両手で肩を揉んでくれた。わー凝ってる!とか聞こえる。
「そういえば、電話ありがとね」
「ううん、クンこそ疲れてるのに来てくれてありがとー」
「いや、バイト寝坊するとこだったからさ、助かったよ」
「えーあぶなーい!あたしでよければいつでもモーニングコールするよお」
「はは、それもいいかな」
「お前、付き合っちゃえば?」
「え?」
彼女が向こうのグループに呼ばれて空いた席に、今度はが座った。「お疲れ」とグラスを合わせてから次にいきなりそんなことを言うので、取り皿によそっていたシーザーサラダのクルトンを落としてしまった。もったいないから拾うけど。
「ありゃ明らかに告白待ちだろ」
「え…え〜〜…」
過度にかけられているドレッシングを少しふり落として、サラダ菜を1枚とクルトンを2つ。
「なに不満?俺はいいと思うけど」
あの子明るいし、そこそこカワイーし。まわりも気付いてるだろー、空気を読め空気を。と続ける。対角線上で盛り上がっている集まりを一瞥するとその後すぐに、ぼんやりした周辺視野で彼女の視線を感じる。
箸を置き、湿ってくたびれた紙のコースターを拾う。それをテーブルに立ててコンコンと鳴らした。
「なーんかさ…」
ひょいと顔を出した店員がウーロンハイご注文のお客様〜と声をかけると、誰かがはーいと答える。続いて味の濃そうな品々が盛られた大皿が運ばれてきた。気を利かせた女子がテーブルの上を片付ける。さっきの彼女のようだった。
「虚しいよな」
は手に持った何か、多分梅(彼の好物なので)のロックをちびっと口に含んだ。丸みを帯びた小さなグラスの中で、透き通った綺麗な氷がコロンと響く。飲み下してふうと息をついたままぼんやりしているので、振り返って聞いてみる。
「俺だけ?」
壁にもたれて顎を上げていたはその横顔のまま視線だけこちらに寄越した。鼻筋が通っていて顎も細いので、この角度から見るとこいつはより男前だ。
「いや、ちげーよ」
グラスの汗で手が濡れたのか、1度テーブルに戻しておしぼりを取った。手を拭いて、一度開いて、たたんで、開いて、丸めて。よくやるのを知ってる。癖なんだろう。
「少なくとも俺は」
「そっか、よかった」
なにも解決していない。どこも進展していない。けど、そう返した。
*
飲んだ後は口の中が気持ち悪くて好きじゃない。ミントの板ガムを奥歯ですり潰し、大きく1つ深呼吸。舌から喉へひんやりとした感覚が広がった。地下鉄の階段を下り終え、券売機を通り過ぎ、後ろのポケットから財布を取り出してセンサーにタッチ。なにかと詰め込んでいるので最初はその都度ICカードを取り出していたが、入れたままでも結構反応してくれるものだ。ピッと鳴って改札が開く。あ、そろそろチャージしないとな。今日の分はまだセーフ。で、えーと、どっち行き乗ればいいんだ?こっちの2番線かな。
今日は自分と同じように進学した野球部仲間と会ってきた。なにか特別な話題があるわけでなくてもやっぱり馴染みの友達は落ち着く。いい時間が過ごせたと思う。また来ると約束した。相手の家には初めて行ったのだが、学校のすぐ近くでいかにも学生マンションといった風だった。まわりは住宅地なのでこの時間になるとずいぶん静かで住みやすそうだ。初めて来た街なのもあって友達は送ると言ってくれたが、さほど遠くもないし道も簡単なので断った。
駅構内も人影はまばらだった。終電までにはまだ数本あるけど、今日は月曜だしな。ホームへ続くエスカレータを下って、電光掲示板で次の電車を確認。あと5、6分か…遅い時間は本数少ないんだな、仕方ない。家までは2回ほど乗り換えないといけないのだが、何両目が便利なんだ?時間あるし、案内探してみるかな。
「?」
見つけた車両案内を眺めていたところで不意に声を掛けられたので、ちょっと驚いて振り向く。振り向いてもっと驚く。
「……あ…」
「やっぱりそうか。驚いたな」
それこそこっちの台詞だ。なんでったってこんな時間にこんな所でお前に会うんだよ!え、なに、この辺なんかあったっけ?
「ああ、俺は後輩の試合に顔出してきたんだ。その後高校にも寄って話し込んでたらこんな時間になってしまってな」
そうか…そうかそうか、武蔵森ってこの辺だったか。多分最寄はここじゃないけど、彼の家へ帰るにはこっちの駅の方が近いんだろう、多分。
意味のない言葉しか発せずにいる俺に、少し懐かしいくらいの落ち着いた声が降りかかる。
「最近、どうかしたのか?授業ほとんど出てないだろう」
連絡を途絶えさせた当初、電話もメールもことごとく無視したことにはなにも触れてこなかった。胃の奥からこみ上げる苦々しい感覚に、味の薄まり始めたガムを強く噛む。
「俺にできることがあるなら協力するし、遠慮なく言ってほしい」
ジーンズのポケットに親指をひっかけて、半ば背を向けていたのを振り返った。
「ほっといてくれよ」
「…本当に、何があったんだ?学校行かずに何してるんだ?」
右で噛んでいたガムを左に移して少し目を伏せた。見たことのない靴を履いていた。秋冬用に新しく買ったんだろうか、いい色だなと思う。
「ほっといてくれ」
「出席数まだ間に合うだろう。ノートも貸すし、明日からでも遅くないから―」
「ほっとけって!」
「ほっとけないんだ!」
そんな風に苦しげに眉間に皺を寄せる表情、初めて見たな。やめてくれ、こっちだって苦しいんだから。
「…なんだよ…保護者気取りかよ」
「違う、うまく言えないが…そんなんじゃなくて…」
視線をさまよわせた彼の斜め後方、電光掲示板のデジタル時計が目に入る。あと1分もないかな。黒字に赤の表示はまるで、タイムリミットを示さんばかりだ。
「ほっとけないんだ、のこと」
俺も…うまく言えないのだが、なんだろう。心臓よりももっと大切な、体の中心、核のようななにか。それが、カッと熱を帯びたような、ぎゅっと締め付けられるような、びくっとひとつ震えたような。どれほどの時間かは分からないが、きっと呼吸は止まっていた。
「…もう」
右足に傾けていた体重を水平に戻した。突っ込んだポケットの中、右手にガムの包み紙が触れる。
「もうこれ以上、俺に構わない方がいいよ」
「…迷惑、か?」
「そういうんじゃなくて…、俺」
まもなく、2番線に電車が参ります。危ないですから、白線の内側までお下がりください―
聞き慣れたアナウンス。遠く後ろの方からごおごおと音が近づき、列車に押し出された地下の空気が全身をあおる。淡い茶髪がはたはた揺れる。目線は俺から離れない。
ああ、参ったな、我慢しようとしても笑ってしまう。飛ばされそうなストールを抑えてみるけど、ごまかせないかな。こんな場面で笑うなんてとても不気味。けど自分でも信じられなくて、おかしくてさ。感情ばっかり先走って、思考が息を切らせて後追ってる感じなんだ。やっぱ笑っちゃうよ。だって―
「好きになっちゃうから。克朗のこと」
ほらやっぱり、そうやって驚いて、困惑して、気分悪くして。
だから、言ったじゃないか。
風をまとった車体が勢いよく現れて、すぐ横を減速しながら滑らかに通り過ぎていく。
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2008/9/16 background ©0501