「ちょっと、ちゃん遅いわよ!」
「あー、スンマセン…」
 仕事場に帰ったら俺に気付いた女将さんがすぐに駆け寄ってきた。美人で気立てが良くて、とてもお世話になっている。無一文の俺を拾ってくれたのは他でもないこの人だ。
「貴方うちの看板なんだからしっかりしてね。早く着替えて」
「はいはい。もう指名入ったんすか?」
「ええ、あのねぇ……今回は特に失礼のないようにお願い」
「はあ、それはまた…役人か何かですか?」
「見れば分かるわ。急いで」
「はーい…」



勤務態度:だいたい真面目



 奥の部屋に入ったは自分用の衣装を取り出し、服に袖を通して、どうせすぐ解かれるんだよな、とか考えながら慣れた手付きで帯を締める。女将に部屋の場所を聞いて、「うわ、一番いいとこだよ」と内心げんなりしつつズルズルと階段を上った。
 お役人の相手の何が面倒って、そりゃもちろん気遣いに尽きる。面白くもない自慢話やら愚痴やらにニコニコしながら相槌を打つのがには至極苦痛だった。それならまだ常連の世間話の相手でもした方がマシというものだ。
「失礼します…」
 一番奥の部屋に辿り着き、正座してからしずしずと襖を開けると案の定、黒光りの制服のお目見えだ。後ろ向きな上、暗くてよく見えないが間違いない。正座したままそっと敷居を跨いで襖を閉じ、客に向き直って営業用の艶のある声を出す。
で御座います。お待たせ致しました」
 は仕事でもそのままの名前を使っている。普通は源氏名のように本名とは別の名前を付けるが、面倒だから平仮名にしただけだった。
「…まったくだ」
 客はご立腹の様子で、背を向けたまま重たい声で短く返した。どれだけ待たせたのか知らないが、今はまだ開店時間前なわけで。ひとこと言い返してやりたかったが、それはもちろん飲み込み、三つ指ついて頭を下げる。
「申し訳ございません…」
「いいから来い」
「はい」
 呼ばれて立ち上がり、するすると歩いて隣に再び座り込むとき、男の口に咥えられた煙草とその煙の臭いに気付いたは思わず、げ、と言いそうになるのを慌てて抑えた。が、顔には出てしまったらしい。
「…煙草は嫌いか」
「え、あ、いや…禁煙ではありませんので…」
 場所が場所だけに、周りに愛煙家は少なくなかったが、は煙たいのが何となく嫌いだった。まあ、実際女将なんかも吸っているので、嫌々ばかり言っていられないのだ。気の知れた客なんかだと気を遣って自分の前では吸わないようにしてくれたりするのだけれど、今回はさすがにそうしてもらうわけにも行くまいとは曖昧な返事を返す。
 しかし男は何か察したのか懐から携帯灰皿を取り出して、咥えていた煙草をその中に突っ込んだ。予想外にマナーがなっていたのでは、へえ、と聊か感心した。
「これで満足か」
「ああ、はあ…わざわざ済みません」
「…」
「…」
 その後しばらく無言のお酌が続き、気まずくて居心地の悪いはどこか落ち着きなくソワソワしてしまう。とは言え相手は役人、気軽に振れる話題も特に思い付かず、しかし相手も何も喋らない。長話を聞き流すだけでいい饒舌な役人の方が、実は随分と楽だったんだなあとは考えを改めた。
「……お前…本当に男か?」
「え!あ、はい…もちろん」
 沈黙に飽きてきて、意識がぼんやりし始めたところを急に顔を覗き込まれて背筋が凍る。今まで直視しなかったから気付かなかったが、男の眼は暗がりでもはっきりと見て取れるほど鋭く研ぎ澄まされた色をしていた。いや、もしかしたら暗闇だからこそそれが際立つのかもしれない。
「(その道の人なのか…?)」
 今まで相手にしてきたボンクラ公務員とは一線を画すその空気に自分の過去が重なりかけて、冷たい汗が一筋、つ、と背骨をなぞって落ちていくのを感じた。ほとんど本能的に、まさに天敵から逃れる動物のように、は身を引きそうになったがそれより早く、目の前の男は突如表情を崩し、唇をしならせて艶美な笑みを浮かべた。鋭利な眼光とあでやかな微笑が入り混じる様子に、は思わず息を呑む。
「フン…男が相手じゃどうかと思ったが、これなら楽しめそうだな」


 ……その後の事はよく覚えていない。障子越しの朝日がじわじわと明るくなってきて、畳の上に大の字になって寝そべったの、肌蹴たままの素肌をそっと温め始めた。とりあえず全身が痛くて体洗うのもしんどい。
「あーもー…ったくどんだけ溜まってんだっつー話だよ!あっ動くと痛い…」
 こりゃ給料割り増しだな、などと一人で決め込みつつはギシギシ鳴りそうな体をむりやり起こすと、重い足取りで腰を不自然に曲げたまま、情けない格好で浴場まで歩き始めた。




 朝食の時間で賑わう真選組の食堂、この時間帯ではほとんどの者は制服には着替えておらず着流し姿なので、の中に一人、カッチリと制服を着込んだ土方が咥え煙草で入ってくれば否が応でも目線が集まった。
「あーららら、土方さんてば朝帰りですかィ」
「やぁだ、ふしだらですねえ」
「何!?トシお前どこ行ってたんだ!?」
「…うっさい」



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2004/9/14  background ©ukihana