「―…?…だろう?」
「あー…どうも。お久しぶりです」
少しずつ暗くなり出した獣道の途中、人の気配に背筋を凍らせ身を潜めていたが、聞き覚えのある名を呼ばれてすごすごと姿を現し、頭の後ろを掻きながら曖昧な口調で頭を上げた。
過去を記憶として
若干顔を伏せたまま上目遣いで、自分の目の前の男をそろっと見遣る。長い黒髪も、黒い眼も、立ち姿も、全然変わっていなかった。
桂小太郎
写真はよく見てたけれど、こうやって面と向かって話すのは本当に久しぶりだ。自分はどうなのだろう。変わっただろうか。変わっただろうな…
「お前…生きていたのか」
「あ、はい…まあその、ギリギリ、というか」
「はどうした?」
「、は……その…」
終始歯切れの悪い喋り方だったが、親友の話に言葉が途切れた。は右手の古傷に目をやる。自分がと共に生きた唯一の証。
あいつは俺を庇って死んだ。
本人はそんなんじゃないって言うだろうけど、そうなんだ。
*
鋭利で巨大な武器で左半身をざっくりやられ、は深手を負っていた。辛うじて繋がっている左腕は真っ赤な肩からだらりとぶら下がり、腰まで達した傷からは鮮血が止め処なく溢れ、左足は殆ど引き摺ることしかできなかった。たち以外にも班員がおり、班長もいたが、その頃には既に皆散り散りになっていて、どこに居るのか、生きているのかどうかも分からない。もしかしたら今踏みそうになってる、足元の亡骸がそれかもしれなかった。がの右腕を肩に担ぎ、2人で一歩ずつ。先程まで共に戦っていたはずの同志の上を歩いた。
歩き続けるうちにすっかり夜も更け、その日はほぼ満月。月の位置も高かった。月光の薄明かりの中、何の前兆もなく、背後が急に明るくなり、間髪入れずに轟音が響き地が揺れる。振り向いた瞬間目が眩む。巨大な照明器具で、2人は完全に捕らえられていた。
は唇を噛み、の体を抱え直す。
「くそ…」
「……も、いい」
「え?」
呼吸するのも苦しそうなが、途切れ途切れに言葉を繋ぐ。すぐ左横の顔を振り返ると、目だけこちらに寄越した。黒い瞳に自分が映った。
「早く、逃げろ。この距離なら…まず当たらねえ」
「おう、だから急いで逃げるんだろうが」
「だから、俺はもういい」
「ふざけんな!先に戦線離脱なんて許さねーぞ」
「ふざけてんのは、そっちだろ」
「い…―っ」
は、もう動かないと思っていた左手で懐から短刀を取り出し鞘を投げ捨て、自分の右腕をきつく握り支えるの右手を切りつけた。突然の痛みに、は咄嗟に手を離す。支えを失ったはそのまま崩れ落ちた。地に敷き詰められた亡骸にが混ざってしまったようで、は怖くて怖くて、慌てて手を伸ばす。右手の痛みなんて、切られたことごと忘れていた。標的になっていることも、追われる身であることも。
「いい加減にしろ!」
仰向けに倒れたは動く右腕で彼の愛刀を抜き、その刃をに突き付けた。
「早く、行け…じゃねーと今ここで、俺がお前を殺す」
「なに…言ってんだ?…早く、早く逃げ…」
「急ぐのはてめーだ!おら、早く行け…行け!本当に斬るぞ!」
「ぁ…あ…!」
混乱した頭の隅では、このままここで、に斬られて死ぬのも悪くないと、少し思った。でもそれは許されない。これ以上は許されない。いや、もしかしたらもう既に…許されてなんていないのかもしれない。
分かっていた。ここであっさり見捨てられても、彼は自分を怨みやしない。きっと怨もうなんて、思いつきもしない。分かっていた。それでもそうしなかったのは、美しい別れと、清らかな彼と相反する醜いエゴ。と一緒に居たかった、それもあった。でもそれだけじゃない。仲間を見捨てた奴なんて、薄情者なんてレッテル、自分で自分に貼りたくなかった。だから逃げた、不浄な自分から。こんなに汚い自分を、彼は最後まで庇ってくれた。見捨てたんではなく、已む無く別れた。それだけだって事に、してくれたんだ。
戦慄く足で、が数歩下がった。の顔からは目を逸らさずに。もずっとを見ていた。言葉は何も交わさなかった。ただじっと互いの目を見て、に、早く行け、と言われる前に、はぎゅっと目を瞑り背を向けた。は笑っていた。誰からも見えなかったけれど、聞こえなかったけれど、絶対に笑っていた。
それがこの世での、との最後だった。別れの形なんて、ほんとに大したことじゃないんだなあと、は墓参りするたびに思う。骨も形見も残らなかったけど、それも大したことじゃない。自分は最後までに甘えてしまったけど、の口から謝罪の言葉が出る事もなかった。言ったらきっと怒るだろうし。だからその代わりに1つ約束をした。お前の分も生きるからと約束した。2人分生きてやると誓った。今朝みたいな気分になるとここへ来て、それを思い出す。生きる意味を確認する。
結局、今になってもまだ、俺はに助けられてるんだ。
*
「……そうか。その帰りという事か」
「あ、はい…」
人の口からと聞いたのは終戦後初めてだったので、頭の中で一気に記憶がフラッシュバックした。回想に耽るをを見て、桂は事を察したように、神妙な顔付きで目を伏せた。ここで会うという時点で、既に分かってはいただろうけれど。右手に花、左に風呂敷の包みを持った姿からすれば、彼も墓参りだろう。
「ここへはよく来るのか」
「そう…ですね、ふと思いついた時に…来たくなります」
「そうだな。私も似たようなものだ」
共通の痛み。分かち合える人と話したのは初めてで、嬉しいのやら哀しいのやら分からない涙が出そうだった。
「今は何をしているんだ」
「え、っと…」
男娼。なんて易々とは言えなかった。怪しまれまいと平静を装うが、若干目が泳ぐ。
「まあ、適当に仕事見つけて…働いてます」
「そうか…腕はまだ磨いているか」
「え?―い、え、あれからは、全く…」
「うむ、今の状況では中々難しいからな」
「そう、ですね」
正直、剣術のことなどの頭にはなかった。
呼び起こされるのは哀しい記憶だけ。考えるのも嫌で、記憶から完全に消していたのだ。
「」
呼ばれて顔を上げると、あの真っ直ぐな目とぶつかった。
「まだ刀を振るつもりはあるか」
「………」
「私はお前とは行動を共にした事はないが、お前との評判はよく聞いていた。若さのわりに腕が立つ。我流でまだ荒削りなところが多いが、磨けば光るとよく言われていただろう」
「…はあ」
「その腕、このまま廃れさせては勿体無いと思わないか」
「そう言われましても、俺はそんな…」
「うちへ来ないか」
左肩に手を置かれ、はまた顔を伏せる。体の前で手を組み、右手に左手を重ねてぎゅう、と握った。
「お前なら攘夷志士の間でもそれなりに名が知れているし、回りの奴らも納得するだろう。どうだ」
「いえ、あの、俺はその、攘夷とか…、そういうのには…関わるつもり、ないんで」
「…そうか」
「あ、お誘いは有難いんです。名前、覚えて頂いてたのも、評価して下さったのも嬉しいです。でも、」
「お前もか」
「え?」
「攘夷なんて、テロなんて、かつての戦友は望んでいないだとか、そういう事を言うのか」
「あ、いや、そんな…俺はそんなちゃんとしたこと考えてないです。ただ…もう今の俺には刀は握れないと思います。…護りたいものもないし」
「…お前もまたお前の生き方で生きるという事か」
「そんなかっこよくないですけど…」
「そうか…まあ、気が向いたらいつでも連絡を寄越すといい。では体に気を付けてな」
「有難うこざいます。桂さんもお気を付けて」
黒装束は茂みの中に消えて行った。
自室のドアは立て付けが悪く、開け閉めするたびに軋んだ音がする。なんだか仕事という気分ではなくなってたけれど、もう行かなくてはならない時間だ。そのまま店に向かえばよかったのだけれど、はわざわざこの部屋に戻ってきた。
物が少なく殺風景な空間の右側、押入れに眼を遣る。一番奥には、かつての愛刀がひっそり眠っているのだ。ずっと手入れしていない。触ってもいないし、見てすらいない。むしろ今でも本当に、ちゃんとそこにあるんだろうか。
一度ぎゅっと強く握った右手では、襖ではなく錆びたドアノブに手を掛けた。
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2004/9/14 background ©ukihana